「自衛官の妻」という生き方

結婚して四半世紀。
航空自衛隊に勤務する夫の転勤に付き従っていくつもの任地を経て、現在は関東に暮らしています。

結婚生活の中盤からは、子供の進学のために便の良いところに定住することを選び、夫が単身赴任を繰り返していますが、これは自衛官の家庭の多くが経験する生活形態です。

私はもともと知己に自衛官のご家庭が多かったことから、結婚当初から大先輩の奥様たちにさまざまな知恵や経験を授けて頂き、そしてリアルタイムでひと世代上の自衛官家庭の在りようを見せて頂きました。

それが自分の生活に大きな影響を与えてくれたと思っています。

如何に暮らすか

結婚するときには、勤務先の上司で、元自衛官の方から手描きマニュアルのコピーをいただきました。
内容は官舎住まいのhow-to・・・引っ越しを前提にした暮らし方の手引きです。

今でいう断捨離に近い、物を増やさないこと。
引っ越しに備えた日々の掃除のコツ。
快適に暮らしながら、「発つ鳥跡を濁さず」を実践するために気を付けるポイントなど。

官舎の規則で許容されている範囲で、鉢植えや小動物(ハムスターや小鳥)との暮らしを楽しむコツとか、転居するときに便利な家具の選び方…A3三枚にまとめられたそれは、恐らく昭和の時代から受け継がれてきていたと思われる代物でした。

ところどころに他の人の字で書き加えられたメモがそのままコピーされていて、オリジナルがどこの誰から流れてきたのかもわからないものです。

その中にあったことで、今でも覚えているのが、カーテンのランナーの扱い方です。
カーテンレールについていて、フックをかけて左右にスライドさせる丸いパーツですが。
引っ越しの際には、そのランナーも、レールの端のパーツをネジを外して取り出し、埃やくすみを洗い流して戻す、というのです。

初めて読んだ時には「え?そこまでする?」と思いましたが。
次にその部屋に入った人にストレスを与えない、という意味においては当然のことだったと思っています。

どの方も、官舎から官舎へと渡り歩くので、せっかく自分がキレイにして旧居を出て、新居に入ったとたんにそこが汚いと、最初の数分で転勤先のすべてが嫌になるほどのストレスになりますから(私も過去三回、酷い部屋に当たった経験アリ)。

もちろん、水回りはピカピカに。
サッシの溝の砂ぼこりもすべて磨き上げてクリアに。
そうした掃除の方法と、効率的な順番までもがイラスト入りで丁寧に書かれていました。

まだ“お任せパック”などがなく、引越しとなれば妻が主戦力という時代に苦労した世代の大先輩は「今度〇〇さんの引っ越しがあるからいらっしゃい!」と呼んでくださったのです。

それは、手伝いをする以上に学ぶことが多く、引越しの具体的な段取りもいろいろと見せて頂きました。
内々示がでて、引っ越しがほぼ決まったら、通常の暮らしを続けながら、どう荷造りを始め、その日を迎えるか、という口伝のメソッドは、その後随分役に立ちました。

今でも航空自衛隊の官舎では、退去する時には担当者のチェックを受け、OKがでないと引っ越せません。

とはいえ、昔ほど厳密にそうした不文律が伝えられるわけでない平成後半からはお掃除も業者任せが増え、汚れが残ったり物品が破損するなど様々なトラブルが多発していると聞いていますが。

おかげさまで、私はどの官舎でも、すべて一発でOKをいただいています。

転居と“仕事”

今でこそ、ネットを使ったり、女性の働き方は多様化し、在宅でも、引っ越しを繰り返してもさまざまな形態で仕事(経済活動)が出来るようになりましたが。2~3年刻みで転居を繰り返す自衛官の配偶者は短期のアルバイトがせいぜいで、腰を据えて働くことが難しい現状がありました。

昔のことですが。宮崎県の新田原では周辺でパートやアルバイトというと、「養鶏場でブロイラーを捌く仕事」しかなかった、という話や。

茨城県の百里では季節限定で「ニラ農家の収穫」に奥さんたちが誘い合って応募して行ったら、一時期官舎中がニラ臭くなったという話。また、近隣の工場で縫製の内職や、贈答用のウィスキーなどの化粧箱の組み立てなど、その時々に出来ることが爆発的に流行る、という傾向はあったようですが、それは恒常的なものではありませんでした。

そんな中で、一部の妻たちが活路を見出したのが“ボランティア”です。

ある程度子供たちが大きくなると、PTA活動等のつながりからその地域の子育て支援や読み聞かせ、また介護なども含めて、経済活動ではないまでも、さまざまなことをして、その“地元”に根を張ることをしていました。

そうすると、官舎の外にも友達ができ、勉強もでき、役割を得られ、生活に張りができる、というものです。
そして、そんな地域とのつながりが意外なところで発揮されることもあったのです。

夫の後ろで

空自は、職種によっては勤務地が限定的になり、同じ基地に複数回転勤してくるローテーションが発生することもあります。
Aさん夫妻がまさにそうでした。

ある基地の一度目の赴任が比較的長かったので、二度目に赴任した時にはA夫人には街に「おかえり!」と迎えてくれた馴染みのお友達がいる、という状態だったそうです。
まだSNSもない時代ですから、お互いに年賀状や引っ越しの挨拶状などできちんとお付き合いを続けていた結果ではありましたが。

そんな時に“事故”が起こり、そのトラブルシュートでAさんが基地の内外問わず奔走することになりました。
役所も、街の方も、当然のように自衛隊に風当たりがとても強くなる中で、それでも早い時期に説明・釈明の機会を与えてくれたのは、奥さん同士の繋がりがあった方、もしくはそれに近いご縁からだったそうです。

裏側にあった奥さん同士の地道で丁寧なお付き合いが、表の仕事を円滑に進める手助けになっている、というケースでした。

知識と経験の蓄積から

ボランティアを続けてきた中で、A夫人が学んだことは食育や朗読・読み聞かせ、AEDの使い方などの救命措置、全般的な防災の知識など、多岐にわたっていました。

行く先々で同様の経験を重ねて、知識を身に着けていったA夫人。
折りに触れて、雑談の中で、彼女が何気なく言ったことが、東日本大震災の時に地域の人に知恵と勇気を与えたという後日談がありました。

長い転勤生活の中で、災害も“事故”も経験してきたA夫人が、松島基地(東松島市)にいた時、地域の防災訓練などで知己やママ友たちに「地震や水害があっても、三日踏ん張れば自衛隊が来てくれる!」と話していたのです。
それを聞いていた知己のBさんは、当初それほど重要視していなかったその言葉を、A家が転居した後の東日本大震災発生時に思い出すことになりました。

Bさんの住まいは松島基地よりです。

津波の第一波の直撃は受けませんでしたが、内陸側で田んぼの用水路や川を遡上した津波がじわじわと水位を上げていったとき、それに気づいたBさんは、まず何をするべきかと考え、思い出したのがA(奥)さんの「三日踏ん張れば…」という言葉だったそうです。

周囲の住人にも声をかけ、貴重品と、石油ストーブ、布団、防寒具と靴、米、カセットコンロやキャンプ道具、飲料水など、ギリギリまで二階に避難させられるものをあげて、皆で上階に避難したそうです。
結果的にそれが当座の“避難生活”を支える基盤づくりになりました。

一時的には床上浸水し、停電などの不便はあったものの、水が引き次第、近所の人たちと声を掛け合って炊き出しをやったというBさん。

この土地の家庭が多く保有している大型冷蔵庫や冷凍庫が水を被ったことで壊れてしまったので、中身を出して、片っ端から調理してみんなで食べた、というのです。米も水も確保してあったから、とにかく食べられるものは傷む前に調理した、と。

そして、A(奥)さんが断言した通り、三日目には自衛隊の人たちが徒歩でその地域までやってきて、給水支援や、避難所などの情報を伝達してくれたとのこと。

「あの言葉はありがたかった」と言っていたBさん。

先が見えず、いつ、どうなるかもわからない状況の中で「三日頑張ればなんとかなる」という区切りをつけることには、大きな意味があったそうです。それを後に人伝に聞いたA夫人も「役に立ったんだ!」と喜んでいました。

過去の“被災地”で

その同じ時期、松島基地の官舎でも、夫たちから「津波が来るから逃げろ」と指示を受けた奥さんたちが、当時官舎に在宅していた人たちに相互に声かけて合って取り残される人が無いよう気を配って避難したという話が伝わってきました。

また、古くは奥尻島の津波や秋田の地震で孤立、停電した官舎でも、奥さんたちがカセットコンロなどを持ち寄って朝から冷蔵庫に残っていた肉を焼き、米を炊いて合宿所のような炊き出しを行ったという体験談を聞きました。

考えることはみな同じ。
そして被害を嘆く前にまず食べて、食べさせて、元気を保つことの大切さを知っているのです。

自衛隊の官舎に住む家族は地域によっては基地・駐屯地と一体化した場所として考えられてしまい、“被災者”とみなしてもらえなかったという過去もありました。
そのいずれもが「だったら自分たちで賄うしかない」と持ち寄った食糧と水で、支援が届くまでの間子供たちを守ったそうです。

当然、そんな状態では夫らは戻ってきません。
日常生活が戻るまで、官舎を守るのは妻たちの仕事になった、というのです。

「一度そんなことを経験すると肝が据わるよね」

そう言った先輩嫁の笑顔はカッコ良かったです。

まとめ

自衛官の家庭の生活は時代の変化とともに多様化しており、かなり早い時期に官舎を出て居を構え、夫たちが単身赴任するケースも増えました。

それは通信費が安価になり、スカイプなどのツールの性能が上がったから、という理由も大きいです。しかし、同居していても、単身赴任で離れていても、何が起こるかわからない日々ですし、また、何が起こってもおかしくない世の中です。

不測の事態が起きた時…私が遭遇した最大のそれは東日本大震災でしたが、夫が帰ってこない間にフル稼働していたあの日々のことは、密度が濃すぎてむしろ一つひとつのことが思い出せません。

自分が経験していることは、しかし、大先輩同業嫁諸氏に比べればまだまだぬるいことばかり…今のところそれで済んでいるのは、とてもラッキーなのだと思っています。自衛官と結婚するというのは、こういうことです。まるで禅寺の修行のようだと思うことも時々ありました。

数多の自衛官家庭のすべてではありませんが。例外なく、その中の誰の身にも起こりうることなのです。
何があっても、乗り越えて暮らしていかなければなりません。

妻も子供たちも当たり前のように鍛えられる日々です。
質実剛健、強くならない方が「嘘だろ?」と思っています。

※画像はイメージです。

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