吉利支丹3万7千の悲劇~島原の乱の生き残りは幕府内通者だった~

どこでも、どんな時代でも、おのれの信念を貫く人間はいる。
けれど時として、それが悲劇を招くこともある。いったい誰が「信じる者は救われる」と言ったのか。信じたからこそ、彼らには死が訪れた。
日本史上最大の一揆となった島原の乱。男も女も老いも若きも皆殺し。このジェノサイドのなかで、キリシタンでありながら一人だけ救出された男がいた。彼には信仰より大事なものがあったのだ。

キリスト教は邪教なり

江戸時代初頭、島原藩・唐津藩に対して領民が蜂起した島原の乱。「神の子」天草四郎率いる反乱軍が、幕府軍に対して繰り広げた4か月にわたる攻防である。
一般的にキリシタン弾圧への抵抗というイメージが強いせいか誤解を招きがちだけれど、犠牲者は殉教者とみなされてはいない。宗教戦争の側面はもちろんあったけれど、そもそもの発端が「藩主の暴政に対する決起」だったからだ。

かつて天草の地は小西行長、島原は有馬晴信というキリシタン大名が領し、カトリック信仰が盛んだった。ところが関ヶ原の戦いで行長が与していたのは西軍。行長は教義を理由に切腹を拒否して斬首となる。一方、東軍に属していた有馬氏は、のちに所領代えの憂き目にあう。天草は寺沢氏の領地になり、島原には松倉氏が入封した。

やがて幕府は禁教令を発布。凶作や新藩主の重い年貢に苦しんでいた領民に、踏み絵や拷問といったキリシタン弾圧がはじまる。当初こそ摘発は比較的ゆるやかだったものの、駿府の大御所・家康に甘さを指摘されてからは徹底した迫害が行われるようになった。史料には、顔に「吉利支丹」の文字を焼きごてで焼きつける、指を切り落とす、熱湯責めにするなど、凄惨な責め苦のようすが記されている。

そんななか、ついに事件が起こる。村人が隠し持っていたデウス(神)の聖画を焼き捨てた代官を、信徒が惨殺したのだ。積もり積もった怒りが爆発した、突発的な出来事だった。とはいえ、こうなったからには後戻りはできない。領民はあちらこちらで決起する。おりしも、とある予言の言葉通りに救世主が現れた。

予言されていた神の子の出現

救世主の出現は、25年前にキリシタン迫害によって追放されたママコス宣教師によって予言されていた。
「当年より五々の数をもって天童が現れる。その者はキリストの教えを信じる人々を救うであろう。クルスを抱いた民衆と白旗に山野が埋めつくされるのだ」
天草では、ママコスが残した言葉をめぐって不思議な風評が流れはじめる。「当年より五々の数」とは25年後という意味ではないか。その「天童」とは、キリシタン大名・小西行長の家臣だった益田甚兵衛の子の四郎ではないか。10代半ばの少年だった四郎は非凡な才能を示し、キリストさながらの奇跡を次々と起こしたと伝えられる。

その出自については諸説あり、なかでも「秀頼の薩摩落ち」は有名。天草四郎の正体は、じつは大坂夏の陣のおりに大坂城を脱出した豊臣秀頼の遺児、つまり秀吉の孫だったという説だ。当時、京で盛んに歌われた流行り唄があったという。

「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田(幸村)が連れて、退(の)きも退いたよ加護島へ」

落城の際に秀頼の最期を見た者はなく、鹿児島に伝秀頼、伝幸村の墓が存在するのも事実。しかし、四郎を「豊臣秀綱」と記した文献や、「天草四郎は豊臣秀頼の子」とする幕府の記録については真偽を確かめるすべがない。徳川軍による島原の乱鎮圧が熾烈をきわめたのは、大坂の陣から20年を経ても彼らが豊臣家に脅威を感じており、その血脈を根絶やしにする必要があったためと主張する研究者もいる。

事実はどうあれ、領民は救世主の出現に歓喜し、神の子のもとに結集した。一般的には華美なひだ衿に黒いマントという姿で知られる天草四郎だけれど、これは後世の創作。当時の目撃証言を記した貴重な史料が残っている。

「白い絹の着物に袴、額には小さな十字架をつけていた。手には御幣(ごへい)をもって反乱軍を指揮していた」

「指揮していた」とはいうものの、現実として16歳の少年が単独で軍事的采配をふるっていたとは考えにくい。反乱軍には純然たる農民のほか、元領主の遺臣たちも数多く加わっていた。彼らは関ヶ原の戦いや大坂の陣などの実戦経験をもつ強者たち。そういう意味で、島原の乱は単なる農民一揆とは勝手が違っていたといえるだろう。かつて武士だった指導者たちによって反乱軍は武装・組織化され、本格的な戦へと発展していく。

天草四郎石像

殺戮の舞台と内通者・山田右衛門作

反乱軍は島原城・富岡城を攻略できず、廃城となっていた旧有馬氏の居城・原城に籠城する。その数、老若男女3万7千人。
幕府軍12万とオランダ船に挟撃されながら、彼らは四郎を精神的支柱に善戦する。

しかし、この攻防のさなかに幕府軍と内通し、矢文によって城内のようすを逐一報告していた男がいた。反乱軍No.2の山田右衛門作(やまだえもさく)。洗礼名はリノ。
彼のおかげで、幕府軍は敵方の兵糧・弾薬が残り少ないことや、動ける人間が3分の1であることを知る。籠城者の死体の胃を裂き、海藻しか入っていないことを確認すると、総攻撃をしかけて一気に原城になだれこんだ。ここで四郎は討ちとられ、反乱軍は崩壊して原城は陥落。幕府軍は城内の者を皆殺しにしていった。死に抗わず、殉じていくキリシタンたちの姿におののいた彼らは、死体に石を投げ落として埋めた。原城跡からはおびただしい数の人骨が十字架やロザリオとともに発掘されているが、頭から足までそろった骨は一体もなく、どれも無惨に損傷していたと報告されている。

「バテレンの痕跡を一切残すべからず」という下知のもと、非戦闘員である女や子どもや老人までが虐殺されていくなかで、右衛門作は救出された。総攻撃の前に内通が発覚し、手枷、足枷をされて牢に監禁され、衰弱しているところを発見されたのだ。
同志の情報を売る代わりに彼が要求したものは、自身と家族の生命の保障。右衛門作にとって信仰は二の次で、何よりも大事なのは妻子だった。もともと蜂起に参加したのも自らの意思ではなく、妻子を人質にとられたからだ。加わらなければ家を焼き払われる。家族が連れていかれる。有無を言わせず参加させられたキリシタン。おそらく右衛門作のようなケースは少なくなかったと思われる。内通が発覚すると、妻子は見せしめに処刑された。

カリスマ的な指導力を発揮したといわれる天草四郎については、近年、じつはそういう人物は存在せず、複数の人物からなるグループ名だったのではないかという疑問も提起されている。しかし、のちの取り調べで右衛門作は供述している。
「才知にかけて並ぶものなし。四郎は儒学や諸術を身につけたデウスの生まれ変わりである」
彼の口述書は、天草四郎や籠城戦の詳細を今に伝える貴重な一次史料といえるだろう。

その後のそれぞれの人生

開府まもない江戸幕府の威信をかけた、12万もの大軍勢による総攻撃。万が一にも「負け」があってはならない一戦。
キリシタンの信仰心と結束力を目の当たりにした将軍・家光は、ポルトガルとの国交を断絶。本格的に鎖国政策を推し進めていく。以降、戊辰戦争までは死者3桁の内戦の記録がないという太平の230年が到来する。

島原の乱が終結したのち、それぞれの人生はどうなったのだろう。まずは乱の原因をつくった張本人が気になる。
島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの苛烈な圧政が蜂起を招いたとして改易処分の末に斬首。まがりなりにも大名が切腹ではなく斬首に処された例は他にあるのだろうか。唐津藩の寺沢堅高も責任を問われ、天草の所領を没収された。やがて堅高は精神に異常をきたして自害、寺沢家は絶える。では山田右衛門作の人生はどうなったのか。

右衛門作は討伐上使の任にあたった老中・松平信綱に連れられて江戸へ。このとき66歳とされるが、この年齢で故郷を離れるのはつらかっただろう。その後はキリシタン目明し(取り締まり人)となり、罪人が刑に処せられるようすを絵を描いて暮らしたといわれる。もとより右衛門作はポルトガル人に西洋画法を習った南蛮絵師(洋画家)で、お抱え絵師として藩主に仕えた身分だった。
その絵の腕前を物語る逸話がある。江戸で火事が続いたとき、放火犯が刑を受ける姿を右衛門作に描かせた。その絵を高札として市中に掲げたとたんに火事がぴたりとやんだというのだ。

ところが彼はある日突然、なぜかキリシタンに立ち返る。そして公然とキリスト教を布教しはじめ、投獄されてしまう。一説によると、晩年は許されて故郷に帰り、明暦3年(1657)頃に80代で没したと伝えられる。

島原の乱で原城本丸にひるがえった天草四郎陣中旗。この御旗の作者とされるのが山田右衛門作、その人である。
十字軍遠征の十字軍旗、ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗に数えられているこの旗は、年に数度の期間限定ではあるけれど、熊本県の天草キリシタン館で実物を目にすることができる。神々しい聖杯、十字架、天使たち。血痕や矢弾の生々しい痕。右衛門作は、この絵を純粋な信仰心から描いたはずだ。ところがそれが信徒たちの運命を狂わせる乱の象徴になってしまった。自分の絵が踏み絵に使われてしまった。妻子を守れなかった自分。無理やり参加させられた人々を救えなかった自分。敵方と通じながら、犠牲を最小限にとどめることができなかった自分。あげくに一人生き残った自分。

島原の乱で彼が背負った十字架はどれほど重かったことだろう。山田右衛門作の数奇な運命をたどるとき、この世に神は存在するのだろうかと思わずにはいられない。

※画像はイメージです。

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