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島津四兄弟の三兄にして稀代の智将「島津歳久」

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島津歳久は「終始の利害を察するの智計並びなく」という評価を祖父忠良より得ています。

稀代の智将といわれる歳久、しかし、そういう歳久が、豊臣秀吉の島津征討に対して見せた姿は、まことに智将らしからぬ振る舞いでした。
すでに義久、義弘の二兄が秀吉に降伏、秀吉は川内泰平寺から川内川を遡り、大口に陣を移したが、その途中のこと、その軍勢が祁答院領の西端の山崎に差し掛かったとき、秀吉の駕籠に矢が射かけられます。
その数本、むなしく、いずれも空駕籠に突き立ちました。

秀吉は後尾の駕籠にあり難を逃れていたのですが、仕手は歳久の家来の本田五郎左衛門という者、この「椿事」に対して、当時は秀吉から何の咎めもありませんでしたが、むろん本田は一人暴走したのではなく、歳久に命じられての行動に相違なく「終始の利害を察する智計」に長けた歳久には考えられない暴挙と見るべきでしょう。様々な憶測なされています。

豊後から退却する島津勢を追撃するべく羽柴秀長の軍勢は日向に入り、島津氏の外城の一つである高城を包囲、その本陣のおかれた根白坂に、島津の主力部隊が夜襲をかけます。
まさに島津氏としては起死回生の戦いを挑んだもので、その勇猛な戦いぶりが伝えられますが、むなしく敗退しました。

このとき島津が失った数百の勇者の中に、歳久の養嗣子三郎次郎忠隣がいて、忠隣は19歳の若武者、歳久が容易に秀吉に降伏せず、智将には考えられない暴挙に出たのは、跡継ぎの忠隣を今度の戦いで失った遺恨からという憶測の一つです。
歳久は、あえて本田五郎左衛門に空駕籠を射るように命じたという、こんな穿った見方もあり、そもそも秀吉の島津征討に対処する評議の場で、和睦案を唱えたのは歳久本人だったといいます。

戦巧者を相手の戦いならば辞すところではないが、秀吉は「関白」で、その権威のもとに糾合する大勢力を相手の戦いに勝ち目があろうはずがない、という歳久の思慮で、もちろん歳久が臆したのではありません。
しかし和睦論は一蹴されて、戦って敗れ、もはや秀吉の九州経営の大事業を阻止する力は島津にないことを、よく知る歳久だったが、安直に秀吉の軍門に降るのはいかにも面白くなく、歳久は、薩摩武士の意地を示しておきたかったのでは、よって空駕籠を射させて、これをしめしたのでしょう。

歳月は流れ、薩摩との国境に近い肥後の佐敷城で島津氏の部将の梅北国兼なる者が、同城の留守居衆によって殺されます。
梅北とその徒党は朝鮮に出陣の途上、平戸からとって返して、加藤清正の島津氏最前線のこの城を占拠したのです。
いわゆる「梅北一揆」ですが、その目的は途方もない秀吉に対する叛乱分子を束ねて豊臣政権からの独立。このとき歳久56歳をかぞえ、歳久は居城である宮之城にいて、折中風にて病床にありました。

これが不運、梅北一揆の報せに義久は、朝鮮出兵のため詰めていた備前名護屋から急ぎ鹿児島に帰り、名護屋の秀吉に注進状を出しましたが、かえってきた秀吉の朱印状は歳久の沙汰でした。
秀吉は梅北一揆の背後に歳久があると疑い、秀吉より薩摩の仕置きを任された細川幽斎が鹿児島に入り、歳久は病身にむち打ち宮之城から鹿児島に出頭、弁明しようとしましたが、鹿児島に着く前に義久以下老臣は評議していて、歳久の首を差し出すことに決定していました。

辛い決定ですが、秀吉の命令であってみれば、なすすべはなく、鹿児島を密かに船出てた歳久は宮之城で自害しようとしますが、追手に阻まれ、しかたなく歳久は瀧ヶ水に上陸、追手の者も、歳久を守る者も同じ薩摩武士、手足が不自由な歳久は「はよう首を討て」と追手を叱咤、しかし進んで従う者がありませんでしたが、最後は原田甚次なる者が進んで出て、主義久の弟歳久の首をはねたのでした。
悲しい稀代の智将の最期でした。

※画像はイメージです。

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