島津義弘は四兄弟の中にあってとりわけ、その勇猛ぶりが喧伝される武将です。
その「勇将」義弘の生涯は「自記(維新公御自記)」に「わかき時より身を弓箭の事にゆだね、命を危難の間に奉じ、数十年の中、昼夜をおかずして」と記しているように、戦いの明け暮れでした。
その戦いにおいて義弘は常に四兄弟の弾頭的活躍を示して、島津の武威を世に鳴らしたのです。
義弘の初陣は20歳の時、この年は三州統一の障りとなり、薩摩・大隅の国境に近い岩剣城を攻め、祁答院良重の守る岩剣城を攻略は、いわゆる大隅合戦の初戦であり、島津氏が初めて鉄砲を実戦に用いた戦いでしたが、義弘は兄義久、弟歳久らと共に参戦しました。
23歳となった義弘は初めて敵の首を捕っていて、それは祁答院良重らに一味して島津に叛いた蒲生範清の蒲生本城を攻めた戦いで、義弘は蒲生本城へ斬り込んで、三尺の剣をふるい自ら鎧の五か所に矢を受け重傷を負ったほどの決死の勇戦で、一騎討ちを制したのでした。
一方、一軍の将として義弘の采配も剛勇そのもの、祖父忠良より「雄略傑出」という評を得ていて、例えば、守護島津氏を戦国大名にする転機となった木崎原の合戦における義弘の用兵が、そうですが、この合戦に挑むとき、義弘は修験者あがりの武将たちに伊東軍の調伏を命じます。
義弘の兵法は呪法と分かちがたく結ばていたようで、武将たちは義弘が本拠としていた伊東領と国境を接する飯野城の鬼門に当たる愛染院の東で調伏をおこない、さらに義弘は領内の社寺に対しても調伏を命じています。
さて、伊東軍が3000余の軍勢は、三山城を拠点として二軍に分かれ、そのうち一軍は義弘夫人と川上忠智(義弘の家老)の守る加久藤城に迫り、これを間喋により探知した義弘は城兵を集めますが、その数は僅か300でした。
「勝則の帰するところは兵数にあらず、将兵一丸となり勇戦すれば勝利を得ること万に一つも間違いなし。この義弘におのおの命をあずけえ」と、城兵を叱咤激励します。
木崎原の戦における働きについて、義弘は「自記」で「予(義弘)はこののがれ難き状況にあって、戦死と決定して、自ら手を砕き、真っ先に進み来た者を討ち取った。続いて来た軍兵を衝突するやこれを斬り崩し、力を味方に添えて一人ももらさず討ち果たすべし、と命令すると、兵卒たちは落ち行く敵を追いかけた」
「予は馬に鞭して敵中を駆け抜け、加久藤より二、三里行くと、落ち行く軍勢の中に、紫縅の鎧を着けて五、六十騎を率いて駆ける者があったのでおめき返したところ、二人が返し向かって来た。一人は柚木崎丹後守と名乗り、もう一人は言語を発せずして予を目がけて斬りかかってきた。予は寄りついてきたこの二人を共に討ちとめたのである」
柚木崎丹後守は日向一の槍突きとうたわれた将でした。
この戦勝を義弘はこう締めくくり「一国の猛勢をわずか二、三百の人数をもって討ち滅ぼすことは、前代未聞たるべき者か。それより伊東の運命窮まれり」
義弘といえば、ただちに想起されるのが「島津の退き口」です。
関ヶ原の役で、僅か二、三百騎の兵で敵軍の中央突破をして撤退、いかにも豪胆をもって鳴る義弘らしい軍事行動であるが、少数精鋭をもって敵と相対することは、すでに28年前の木崎原の戦に見られていたのです。豊臣秀吉の島津征討にたいしても、おいそれと白旗を掲げることはしませんでした。
兄義久は川内の泰平寺に陣していた秀吉に出頭して降伏、老中の伊集院忠棟に説得されて、「向かいくる敵と合戦して死に花を咲かせてくれん」として決意を翻したのだが、一方、義弘はこのときまだ降伏していない、義弘は日向の所領安堵を目指して、今一度秀吉に戦いを挑み講和を有利に導こうとしていて、義弘が羽柴秀長の部将の福智長通に説得されてようやく降伏、兄義久に遅れること10日が経過していました。
大勢が決してもなお秀吉に抵抗を試みようとした義弘には、のちに朝鮮の役、関ヶ原の役で島津の武威を轟かせた武将の面目が躍如としてかんじられます。
朝鮮の役でのこと、このとき日本軍には凍死者が続出しますが、島津軍には1人も出ていません。
これを不審を立てた加藤清正が、島津軍の陣営を訪ねると、屋内には大きな囲炉裏が設けてあり、薪が赤々と焚かれ、義弘と兵卒は一緒になってこれに足を入れて暖をとっていました。
「いつもこうしているのか」と清正が兵士の1人に訊ねると「殿は夜毎総陣営を巡回すること三度、火暖の絶えぬように命じられているのでござる。わけても風雪の夜は、上下一様に粥をすすり寒気をしのいでおりますが、義弘公もこれは同じであります」
主従の隔てなく軍陣の暮らしを共にした義弘の姿勢に兵から一騎当千の戦いを引き出した秘密といえるでしょう。
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