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島津四兄弟の末弟にして軍法戦術の妙手の島津家久

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独立大名の可能性を秘めた軍法戦術の妙手の島津家久の話。

祖父忠良が孫の家久を評した言葉「家久は軍法戦術の妙を得たり」忠良が没したとき、家久は22歳。
その「軍法戦術」をどの程度知りえたかは、ともかく実に的を得た評言です。

家久は沖田畷と戸次川という二つの合戦で、龍造寺隆信と長宗我部信親という2人(十河存保を含めるならば3人)の大名を討ち取った人物。
これは戦国の野戦史上、まことに希有な事例、武田信玄、上杉謙信にもなく、織田信長さえ桶狭間の事例があるだけ、天下分け目の関ヶ原合戦でも数多の大名のなかで戦場で自害したのは大谷吉継ただ1人、傑出した野戦の才、これこそ家久の真骨頂だといえます。

三州統一から九州制覇へと島津氏の軍旗は北へ向かうが、その先頭にはいつも家久がいました。
沖田畷の戦い、戸次川の戦いは家久の武名を天下に轟かせた、家久の軍略・軍法の特徴は巧みな伏兵戦術を駆使しながらも、不退転の決意で戦うために「場定め」という過酷な軍法を配下に課すことでした。

沖田畷の戦いに挑んで、家久は次のように演説したといいます。
「一同背後には海があってのがるることできず、前には2万5000の兵があってその大部分は未だ戦を始めるものであることを思ひ、必然死すべきこと覚悟し、臆病によって薩摩の名が消えることのないやうに、少しも怖れず勇敢に攻撃すべし」

羽柴秀長の十数万の大軍に囲まれた日向高城の救援に向かった島津勢だったが、大友方との高城合戦の陣取った根白坂は豊臣方に占められ、地勢は不利なまま、島津勢は敵陣に突入を繰り返した。
その度に跳ね返され家久も「討死ともおもひきはめ(思ひ極め)」と戦ったが、義久と義弘に止められます。
家久は無念なまま居城の佐土原を開城、秀長に降伏しました。

日向野尻で秀長に謁見したのち、しばらくたった後に没したため家久は毒をもられたと伝わり、毒をもったのは秀長だといわれますがおかしい。
家久は豊臣方の軍門に降るのもやむなしと考えていて、主戦派ではありませんでした。

また家久は秀長に従い、上洛し「似合の扶持」を受けることにもなっていました。
つまり、島津宗家から離脱して豊臣大名として、独立する可能性さえあったのです。
恭順の姿勢を示した家久を秀長が毒殺する理由はなく、家久の死があまりに突然だっただけに、憶説が飛び交ったのでしょう。

※画像はイメージです。

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