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武田信玄の埋蔵金のお話

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色々調べていると日本でもゴールドラッシュがあった、なので埋蔵金伝説があるんだなあと興味深い話をご紹介しますね。

黄金の国ジパングというのは、日本に来たことがないマルコ・ポーロが「東方見聞録」でヨーロッパに紹介したことで、奥州平泉の中尊寺の金色堂のことではと言われています。
その時代の日本はむしろ金を輸入していたそうで、マルコ・ポーロは間違って紹介したということになるのですが、しかし大航海時代にヨーロッパから宣教師たちがやってきたころの日本ではゴールドラッシュといってもいいほど、あちこちで金が産出されたということなんです。
ということで、武田信玄は甲斐の国から信濃を攻略し、上杉謙信と川中島合戦で戦ったことで有名ですが、山国でお米が豊富にとれない=当時はお米がお金みたいなもんだった、なのに戦国最強の騎馬軍団をもち、西上作戦で京都へ攻めのぼる途上だったのは甲斐の国で金が産出し、軍資金が豊富にあったからなんですね。

しかし信玄は天正元年(1873年)に西上作戦途上で病死し、跡継ぎの勝頼は10年も持たずに武田家は滅亡。
信玄の時代から金山の担当だったのは、信玄の姉の子で信玄の娘が嫁という親族の穴山信君(梅雪)でした。
この人は武田家滅亡の前に徳川家康に内通して寝返った人で、勝頼の滅亡後に自分の息子を武田家の跡取りにと織田信長に承認されたのでしたが、お礼のために安土城と京都、堺見物に行ったら本能寺の変に遭遇。

このときは徳川家康もご同様で、服部半蔵らの介添えで必死の伊賀越えをして危ないところだったのですが、信君は家康に一緒に帰ろうと誘われたが、断って別の道を行ったせいで強盗か一揆だったかに襲撃されて殺害されてしまったのです。
穴山信君は家康に内通したときに黄金2千枚と美女を贈ったそうで、武田家の財宝を3つに分けて隠したという話があって、信君を殺した盗賊が信君のふところにあった日記だったかを奪って、埋蔵金のひとつを取り出したという話があるそう。

その後、ずっと下った幕末に旅行で訪れた夫婦が偶然埋蔵金を発見したが惨殺された話、明治の末には、金山近くの谷で見つかった転落死した男の遺体のそばに金の延べ棒(竹流し金?)10本と、水に濡れて判別できないノートが発見されたという話、1971年には、勝沼町のブドウ園でゴミを埋める穴を掘っていたら「ひるも金」と呼ばれる室町幕府時代の金貨2枚と甲州金18個が発見された(武田家臣の埋蔵金)こともあるということです。

また、穴山信君の子孫が古文書に記された「隠し湯の湧きて流る 窟穴を、のぼりて指せや」という謎めいた文句を発見したとか、河口湖、諏訪湖に沈めたという話もあって、いまだにひそかに埋蔵金を探す人が絶えないんだそう。

ありそうでなかなか出てこない埋蔵金ですが、もし発見した場合は遺失物扱いになるとか、文化財保護法にも引っかかるのできちんと届け出るようにということですが、謎めいた文の解読とかロマンがあってわくわくしちゃいますね。

※画像はイメージです。

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