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戦力差10倍!上杉謙信の軍勢を破った謎の軍師 白井入道

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10倍もの軍勢で攻め寄せるに落城寸前、絶対絶命のピンチに登場し、上杉謙信の軍勢を破った謎の軍師 白井入道について解説します。

現在の臼井城趾は本丸と二の丸が公園となっています。
一面に芝生が敷かれトイレやベンチも用意され、良い散歩コースの一見、城とは思えない情景、本丸と二の丸は今も大きな空壕(からぼり)によって分断され僅かに残る土塁が、かつてここに城があったことを主張しています。
本丸の眼前に印旛沼が海のごとく広がる城趾の三方は切り立った舌状台地、主郭部を外郭が帯状に取り巻いている、城下には市川道、布佐道、佐倉道、千葉道がめぐっています。

この場所は永久2年(1114年)、千葉氏の一族 臼井常康(うすいつねやす)が初めて館を築き、それを14世紀始めに臼井興胤(うすいおきたね)が城郭に改修、臼井城が誕生したのがはじまりです。
この臼井城を舞台に上杉謙信率いる軍勢を撃退した名軍師の話があります。

謙信襲来時、この城を支配していたのは、臼井氏ではなく原胤貞(はらたぬさだ)で臼井城主の臼井景胤(うすいかげたね)が弘治3年(1557年)に亡くなる際、信頼する原胤貞に幼い息子・久胤(ひさたね)の後見を依頼、これを受けて臼井城に出入りする原胤貞ですが臼井氏の家臣たちを巧みに籠絡し懐柔してしまい、やがて久胤を追い出してしまいます。

原胤貞は当時、本家の千葉氏を凌ぐ勢力に成長、後北条氏の有力家臣となっていました。
永禄9年(1566年)に三国峠を越えて関東の諸将に動員をかけた上杉謙信は人数が集まると疾風のごとく、関東平野を下り常陸小田城(現茨城県つくば市)を攻め滅ぼし、下総小金城(現千葉県松戸市)を蹂躙、同年3月上旬に臼井城を1万5000の軍勢で包囲します。

原胤貞は、千葉氏や後北条氏に援軍を求めたが、臼井城ではなく本佐倉城(千葉氏の本城)が標的になると憂慮した千葉氏は、臼井城には小勢しか送りませんでした。
一方の後北条氏も安房(現千葉県南端)里見氏との戦いに総力を傾けているさなかで、派遣したのは松田孫太郎ら150の兵にすぎませんでした。
そのため城に詰めた兵は援軍と合わせても2000足らずだったのです。

しかも相手は軍神と恐れられた上杉謙信、勝ち目などない合戦であるのは誰が見ても明らかでした。
そんな戦いに奇跡的な勝利をもたらした人物は1人の軍師、白井入道浄三(しらいにゅうどうじょうさん)で出自は明らかではありません。

一説には千葉氏の分流に生まれ、利胤・親胤・富胤の千葉氏三代に軍師として仕えたとされ、また三好三人衆の三好日向守に参謀に雇われ、のちに武者修行のため関東に下って来たとも伝えられます。
いずれにせよ、たまたまとはいえ白井入道という知恵者が在城していたことが合戦の行方を大きく変えたのです。

到来した上杉軍の波状攻撃は凄まじく、3月20日には壕一重を残すばかりの危機的な状況、長尾景長(謙信重臣)も下野足利(現栃木県足利市)の千手院に「臼井之地、実城(主郭部)堀一重に之を致し、諸軍(味方の軍勢)取り詰め、夜白(昼夜)隙なく之(城)を責められ候間、落居(落城)程有るべからず候」と書簡で報告、もはや絶体絶命の臼井城はあと数日のうちに落城するところでした。

こうした中、城主・原胤貞から指揮権を委嘱(いしょく)さられた白井入道は、城兵を一堂に集め「このだび大敵発向すといえども、さらに恐れべらず。敵陣の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老にして消える。味方の陣中に立つ軍気は、みな律儀にして王相に消える間、敵は敗軍疑いなし(北条記)」と明言、この軍師の自信に満ちた態度を将士は、みな頼もしく思って、意気消沈していた士気がにわかに活気づきました。

戦国時代の軍師は戦略や戦術を大将に献策するだけの存在ではありません。
こんな気の動きや天候・天体、方角や日取りなどから吉凶を判断するのも重要でした。
とくに敗色濃厚のこのような状況のとき自軍に都合よく解釈し、味方の士気を高める役目もあり、白井入道は城兵を励ましつつ、巧みに士卒をまとめ決して無理せず、ひたすら好機を待ちました。
3月23日、上杉謙信は「これ程の小城、何程の事かあるべき。唯一攻めに揉み落とせ」と総攻撃を命じます。

陥落寸前と見て安心したのか一瞬、上杉軍に油断が生じ、この機を見逃さなかった白井入道なんと敵が迫りくる中、城門を全開、逆に城兵に総攻撃を厳命、かくして鬨の声をあげながら城兵が敵勢へ殺到、原大蔵丞と高城胤辰率いる原軍先鋒は上杉の大軍へとしゃにむに前進。
疲れのでたところで二陣の平山某と酒井某らが変わって敵陣に風穴を広げ、松田孫太郎と佐久間某率いる三陣が謙信本陣まであと僅かのところに迫ったのです。

白井入道の策はどうやら雑兵などに目もくれず、錐で穴を開けるがごとく謙信本陣に突入して、あわよくば大将の首を取るというものだったようです。
この戦いで松田孫太郎は凄まじい活躍をし、漆黒の巨馬に股がって先頭を駆け、向かいくる敵兵を長刀で斬り殺し、刀が役に立たなくなると樫の棒で馬上の敵を打ち落とし、素手で首をねじ切ったと伝えられ、彼は真っ赤な具足を身に付けていたことから人々は松田孫太郎を「赤鬼」と呼んだが、この日の働きは鬼神そのものでした。

こうした猛攻に上杉軍は後退を余儀なくされます。
翌日、謙信は万全の態勢で、敵勢が来襲して来るのを本陣でまちます。

ところが、いつまで立っても敵は城から出てきません。
不思議に思った謙信は「昨日はあれほどの勝利を収めておきながら、なぜ敵兵は勢いに乗じてこないのか、疲れたか、それとも今日の風雨を嫌ったか」と側近の海野隼人正に尋ねた。
すると海野は「今日は千悔日といっても他人より先に行動を起こすと失敗する日、敵中には白井入道という名軍師がいるとのこと。おそらくは白井の指図でしょう。たぶん今日は攻撃してこないと存じます」と答えます。

驚くことに海野は白井入道の在城を知っていたのです。
おそらくは白井入道が上杉方に「白井入道という名軍師が在城している」と流言を流し、上杉陣中に巧みに情報戦術をしかけたのでしょう。

この情報戦術に業を煮やし痺れをきらした謙信は部下たちに攻撃を命じ、先鋒の長尾顕長は、兵を率いて城の逆茂木を打ち壊し、壕を越えて大手門に迫ります。
異変が起きたのは、そのときでした突如、城壁が崩れ落ち、無惨にも壁の下敷きになって上杉兵数百が一瞬で圧死しました。
無論のこと、これは白井入道の仕掛けた罠だったのです。

驚嘆した謙信は全軍に退却を命じ、後退します。
この機に白井入道は総攻撃を命じ、上杉軍の殿(しんがり)にくらいつき、合戦は勢いのあるほうが強く、また深追いしなければ無駄な犠牲を出すこともありません。
この合戦で常に冷静に状況判断と分析を怠らず、機を見誤りのない判断をした白井入道により、戦国最強とも云われる上杉軍を退却させます。

敗色濃厚から勝利に導いた白井入道の名軍師ぶりはなかなかのものであったのです。

写真はイメージです。

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