ブリキに豆鉄砲だの、チハたんだのと言われる日本軍戦車ですが昭和20年に最後の機動防御戦を成功させています。
皮肉なことに終戦後の千島列島、占守島においてでした。
占守島は千島列島の最北端に位置し、ほとんどカムチャッカ半島に接した位置にあります。
太平洋戦争開戦後、アッツ、キスカがアメリカに奪還された後は北方戦線の最前線として幌筵島と共に兵力配備が進みました。
しかし昭和20年に入り本土決戦が現実味を帯びてくると、主力の91師団から次々と兵力が抜かれていきます。同時に海軍も航空機を内地に移動させていきました。
そんな中、8月15日。日本は連合国に無条件降伏します。が、大陸ではソ連軍との戦闘が続いており停戦命令と同時に「自衛戦闘については許可」という相矛盾した命令が通達されます。
事実ソ連軍が占守島に向けて上陸部隊を動かし始めたのは8月15日です。
ソ連軍が占守島竹田浜に上陸したのは8月18日だったのです。完全に停戦違反ですね。
ソ連軍は四嶺山まで進出しましたが、そこで精鋭第11戦車連隊と遭遇します。
戦車連隊は敵中突入を行い、歩兵主体のソ連軍を蹂躙しようとしますが速射砲や対戦車砲で多くが撃破されました。
そこへ、後続の独立歩兵283大隊が到着し戦車と歩兵共同の機動反撃に移ります。ソ連軍を竹田浜周辺まで駆逐に成功し、さらには周辺要地の奪回にも成功しています。
戦車11連隊は大損害を受けましたが、機動防御戦を見事に勝ち抜きました。
しかし、20日には降伏が確約され23日まで日本軍は武装解除され、多くの兵士はシベリアに抑留される結果となります。占守島の戦いは千島において唯一のソ連軍との戦闘になりました。一説にはソ連軍の死傷者は3000名を超えると言われ、ソ連政府機関紙イズベスチヤは「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」とすら述べたと言われています。
皮肉にもこの戦闘がほとんど唯一、日本陸軍が機動防御戦を戦い戦術的勝利を収めた戦闘になります。
※写真はイメージです。
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