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2200年眠り続ける始皇帝、考古学者が発掘を恐れる理由とは?

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洛陽の西方にあり、「西の首都」の名をもつ中国陝西省の省都西安(シーアン)。
はるか古代より13の王朝の都城として栄え、西都、西京、長安とも称されたこの地は、唐代はシルクロードの東の起点として東西の文物が行き交う世界最大の国際都市だった。

今から49年前のある日、郊外で井戸を掘っていた農民が地中に埋もれた素焼きの破片に目をとめた。大がかりな発掘調査をしたところ、巨大な地下空洞に何千もの兵士や軍馬の等身大の彫像が整然と隊列を組んでいるのが見つかった。世界中が仰天した始皇帝の軍隊、兵馬俑(へいばよう)である。

じつは、兵馬俑坑そのものは始皇帝の墓ではない。彼らは陵墓を取り囲むように副葬された陪葬坑で、広大なネクロポリスの一部にすぎない。その使命は、皇帝陛下の眠りを永遠にお守りすること。
肝心のご本尊は、兵馬俑坑から1.5km離れた墳丘の霊廟に鎮座する。中国史上最大規模の皇帝陵墓であるにもかかわらず、その眠りはいまだに妨げられていない。それには理由があるはずだ。

まず考えられるのは、現時点では発掘技術・保存技術が追いつかず、貴重な遺産を破壊してしまう恐れがあるということ。
もうひとつは危険な罠の伝承だ。司馬遷の『史記』の記述が真実ならば、この陵墓、インディアナ・ジョーンズでもうかつには暴けない厄介な墓なのである。

目次

20世紀最大の発見、始皇帝の兵馬俑

文化大革命の混乱のさなか、偶然に発見されて大騒ぎになった兵馬俑。「俑」とは古代中国で死者を埋葬する際に副葬された、人を模した彫像のことをいう。
秦始皇帝陵の兵馬俑坑は、現在発掘調査が進められ公開されている部分だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所が残されている。
もっとも面積が広い1号坑は野球場とほぼ同じ大きさで、数千もの歩兵や戦車がすべて東を向いて戦闘態勢。なぜ東かというと、戦国七雄が覇を競った分裂期、秦は最西端に位置する国であり、魏、楚、趙、斉、韓、燕はすべて東方にあったからだ。

当時の秦の兵士たちの姿を映して制作した俑は平均身長180cm、ひとつとして顔立ちが同じものがない。おそらく多様な民族が秦に従属しており、軍隊も混成部隊であったのだろう。彼らが携えている武器はもとより、戦馬や戦車もきわめて精巧で、職人の丁寧な仕事ぶりがうかがえる。
2号坑に布陣するのは、クロスボウ(弩か?)をもつ射兵、騎兵、歩兵、戦車兵。3号坑は全軍の司令部で、東を向いていない俑がいる。

兵馬俑は、始皇帝が敵国を次々と打ち滅ぼして初の中国統一を果たした際の主力軍を模したものとされる。死後の自分に仕える軍隊として兵士や馬車を作らせたのだ。永遠の命に執着した始皇帝は、生前の生活を丸ごと来世へもっていき、そこでも皇帝に君臨しつづけることを望んだのだろう。

発掘不可能な墓

七つの国が割拠した戦乱の世を制し、紀元前221年に中華史上初となる統一国家を打ち立てた始皇帝。
それまでは絵空事にすぎなかったことをやってのけたのがこの男である。王の称号を捨てて「始皇帝」と称し、初代皇帝となった彼の墓所は、70万人以上の労働力と40年近い歳月をかけて築造された。着手したのは秦王に即位した12歳のときといわれる。

西安の東の平原に悠然とそびえる緑の始皇帝陵。現在は墳丘全体が樹木に覆われ、天頂部分が丸みを帯びているために山のようにみえるが、完成時は頂上が尖ったピラミッド型だったという。高さは76m、柩は地下宮殿の中央に安置されていると考えられてきた。陵墓周辺には副葬墓が400基以上もある。
おそらく2200年のあいだ、この墓の秘密を知る者はいなかっただろう。 内部はほぼ完全な状態で現存していると思われる。

この墳丘墓を取り囲む陪葬坑には調査のメスが入っている。だが、世界中から大きな期待が寄せられているにもかかわらず、中国政府は始皇帝の霊廟について「原則として現状保存」の方針を変えていない。
兵馬俑は発掘できても、始皇帝の墓を掘り起こせないのはなぜだろう。考古学者が発掘に二の足を踏む理由とは?

侵入者に襲いかかるブービートラップ

発掘をためらう理由のひとつは、墓に仕掛けられた罠の伝承である。
始皇帝の死から100年ほどあとに書かれた司馬遷の『史記』にこうある。
「職人たちは、墓に忍び込む不届き者を撃ち抜くための石弓や矢をつくるよう命じられた」
墓を盗掘しようとする者を一人残らずあの世へ送るトラップが張りめぐらされているというのだ。

『史記』の秦始皇本紀に記された「墓に近衛兵3000人の人形を埋めた」という記述についても、3000体どころか8000体もの兵馬俑が発掘されていることから、『史記』の記述の正確性が証明されている。
始皇帝は本当に自動発射装置のついた弓矢を仕掛けたのだろうか。

「ふん、ばかばかしい。仮に仕掛けたとしても、2000年前の装置が動くはずないじゃないか。始皇帝がブービー(間抜け)だよ!」
こういう手合いはどこにでもいる。そして映画やドラマでは真っ先に殺される。ここは古代の叡智と技術に敬意を表し、あえて「矢が飛んでくる」に一票。

水銀の海を越えていけ

陵墓の秘密について、さらに『史記』はこう記す。
「100人の役人のための宮殿や高楼、水銀が流れる百の川、天体を再現した宝石の星がまたたく天井」
始皇帝の遺体安置場所の近くには、長江、黄河、大海が造られ、水銀が機械仕掛けで流れるようになっているというのだ。たとえトラップが作動せずとも、これでは水銀の海が侵入者を飲み込んでしまう。
考古学者が墓周辺の水銀濃度を調べたところ、自然界より100倍高い濃度の水銀が検知され、またもや伝説扱いされていた記述の信憑性が確認された。さらに最新の科学テクノロジーを駆使した調査により、墳丘の地下30mのところに宮殿らしき空間があることも判明した。

地下宮殿は東西170m、南北145mの規模で、その中央には棺を納める椁室(かくしつ)が存在すると考えられている。棺に到達するには、有毒な水銀の海を越えていかなければならない。
揮発性の高い水銀が、歳月の経過とともに亀裂から漏れている可能性もある。これまでの調査結果は、陵墓が2200年間封印されたままだったことを裏付けている、と専門家は結論づけた。
おそらく始皇帝陵の地下空間は気化水銀が充満しているのだろう。このことも発掘の妨げになっているのはまちがいない。

考古学者が考える遺跡保護とは

遺跡の発掘・公開と保存は二律背反する問題だ。発掘を躊躇する背景には、重要な歴史的遺物が破壊されるという懸念もあるのだろう。
現時点では、陵墓の内部に入るには侵襲的な手段をとらざるをえないため、取り返しのつかない損傷を引き起こす危険性が高い。

遺跡の保護に失敗した事例といえば、ハインリヒ・シュリーマンによるトロイの発掘調査が有名だ。専門知識の欠如と性急な調査のせいで、貴重な都市の痕跡を破壊してしまう結果になった。
先に挙げた兵馬俑の発掘でも苦い経験をした。当初は極彩色で彩られていた俑が、外気に触れたとたんに酸化して退色し、現在の灰色になってしまったというのだ。
技術面のハードルが高く、保存の問題も山積みの現段階では、発掘は破壊につながってしまう。考古学者たちは同じ過ちをくり返さないよう、慎重になっていると思われる。始皇帝陵の発掘調査は、技術が向上した未来の学者に託すということではないだろうか。

壮大な始皇帝陵に感じるのは、死後の世界への思いである。古代の人々の死生観は身分によってさまざまだったにちがいない。中国初の
皇帝はどのような死後の世界を望んだのだろうか。
「調査はあと数十年はかかるでしょう」と専門家は指摘する。全容が解明するのはまだまだ先の話だ。

気長に待ちつづけるとしよう。なにせ2200年間も眠っていた秘密なのだから。

※画像はイメージです。

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