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暴君と名君、2つの顔を持つ「秦の始皇帝」の生涯と功績

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現在、人気漫画で主要な登場人物のモデルとなっている秦の始皇帝。彼は歴史の教科書に取り上げられており、歴史関係の小説や漫画に登場することが多いもの。しかし、その生涯を知っている人は少ないはずです。

初めて中国を統一した始皇帝。彼は、どんな人生を歩んだのでしょうか。また、どんな功績を残したのでしょうか。
この記事では、マイナスなイメージを抱きがちな秦の始皇帝の、プラスの面を中心として見ていきたいと思います。

目次

秦の始皇帝の生涯とは?~ざっくりと解説~

秦の始皇帝はどのように生まれ、どのように生きて行ったのでしょうか。また、「不老不死を求めた皇帝」としての彼は、どのような人物だったのでしょうか。
ここでは、そんな始皇帝の生涯を、ざっくりと解説していきます。

Unknown artistUnknown artist, Public domain, via Wikimedia Commons

人質の子として生まれる

始皇帝は、古代中国の大国・秦の王位に就いた人物です。しかし、彼が生まれたのは、全く別の国でした。
秦の始皇帝が生きた時代は、紀元前3世紀。その時代中国では、7つの国が覇権を争っていました。いわゆる「戦国七雄」です。そして、この7つの国の間では、盛んに人質のやり取りが行われていました。

始皇帝の名前は「政(せい)」と言います。その父は、秦王・安国君の子である子楚です。そして子楚は敵国である趙で、人質として生活していました。そしてその子である政もまた、子楚が人質として扱われているこの期間に、趙で生まれたのです。安国君には、寵愛する夫人との間に子がいませんでした。しかし、子供の数は多く、子楚が王位につける可能性は限りなく低いものでした。

そこに現れたのが、商人の呂不韋です。
呂不韋は子楚に目を付け、彼が王位につけるよう手助けをしました。金銭的に援助をして、子楚が有力者と付き合えるよう取り計らったのです。その試みは成功し、子楚は帰国。安国君の後継者となることができました。

子楚が王位に就くと、その長子である政もまた、皇太子となることが決まりました。

おまけ
始皇帝が生まれた背景には、少しばかり暗い噂があります。それは、始皇帝が子楚の子ではなく、呂不韋の子だというものです。子楚の妻となったのは、元々呂不韋の愛人だった趙姫です。呂不韋は子楚に請われ、(ことわりきれなかったのか、計算ずくだったのかは定かではありませんが)愛人を子楚に差し出したのです。
一説では、趙姫が子楚と結婚したときには、すでに政を身ごもっていたとされています。

13歳で即位

子楚は王位に就いたものの、即位後、たった3年で亡くなってしまいます。そして、13歳の秦王・政が誕生しました。
王とは言ってもまだ子供。自分だけでは政治ができない政を補佐したのは、子楚を助けた呂不韋でした。当然、呂不韋は宮廷内で大きな権力を持つようになります。そして、その力は後宮にまで及んでいたとの話もあります。

政が成長すると、母である趙姫の愛人であり宦官であるロウアイが反乱を起こしました。この乱はすぐさま鎮圧され、ロウアイは処刑、趙姫も幽閉されます。また、この騒動は呂不韋にも及び、彼は流刑を言い渡されることになります。呂不韋はこの宣告を受け、毒を飲んで自殺してしまいました。
※呂不韋は超姫が後宮に入ってからも、彼女との関係を続けていたとされています

呂不韋の死亡。これにより、政は王としての実権を握ることになります。

中国の統一

政が王位に就く前から、秦は軍事力の面で他の6つの国を上回っていました。時折、秦の軍事力を削ぐために動いた国もありましたが、うまくいかなかったようです。
呂不韋の死亡から間もなく、秦は韓を滅ぼしました。次に秦は、政がかつて住んだ趙を滅ぼします。政は超で良い扱いをされなかったようで、自ら趙の都に入ります。そこで、「自分と母の実家を悪く言った者たちを穴に埋めてしまえ!」という命令を発したとされています。

政は幾度か、暗殺の危機にさらされました。最も知られているのは、燕の太子・丹が放った刺客・荊軻による暗殺未遂です。荊軻の覚悟を読んだ漢詩は美しく、有名なものです。
しかし、荊軻は失敗。秦は燕に攻め込み、これを滅亡させました。そして、そのまま魏と楚、さらに最後の一国である斉を滅ぼしました。この時、斉は一切抵抗しなかったと言います。

秦を除く六国が滅亡したことにより、39歳の秦王・政が中国統一を果たすこととなったのです。

始皇帝の死

中国統一を果たした政は、自身の称号を「皇帝」と定め、「朕」という自称は皇帝しか使えないものとしました。また、巨大な中央集権国家を運営するための新たな試みを数多く行いました。

その上で、始皇帝は新しい領地のあちこちを、車に乗って視察して回りました。その巡行は、在位していた10年前後の間に5回程度行われたとされています。その目的は、各地を見回ることは勿論、一国の王が担うべき祭祀を執り行うことにありました。

始皇帝が病気になって死亡したのは、そんな巡行のさなかだったとされています。側近である李斯と趙高が始皇帝の乗る車を覗くと、すでに死後硬直が始まっている始皇帝の死体を見つけたといいます。

始皇帝の死は、側近たちによって隠されました。始皇帝の長子である扶蘇を廃して、末子の胡亥を跡継ぎにするためです。
始皇帝の死体は、その死を隠したまま秦の都・咸陽へと帰ってきました。胡亥が皇帝の座に就いたものの、その実権は趙高にありました。しかし、趙高の栄華も長くは続きません。

始皇帝の死から3年、秦は劉邦によって滅ぼされたのです。

秦の始皇帝の功績

独裁者として知られる秦の始皇帝ですが、現代にいたるまで語り継がれるような功績も残しています。
ここでは、そのごく一部をご紹介していきます。

文字の統一

当時の中国は様々な国が存在したこともあり、それぞれ違う文字を使っていました。始皇帝は中国の統一に際し、今まで秦が使ってきた文字を、共通のものとすることを定めました。これを「同文」と言います。

文字が同じであれば、遠く離れた場所に住む人々とも、容易に意思の疎通が図れます。いくつもの国を統一し統治していく上で、皆が同じ文字を理解することは、とても重要でした。
また、滅びた6つの国が使っていた文字を「六国文字」と言います。この文字の資料は、今にほとんど残っていません。

度量衡の統一

「度量衡」とは、重さなどの単位やそれらを計る器具などをひっくるめた呼び名です。始皇帝は文字と共に、この度量衡も統一しました。

始皇帝以前、度量衡は国ごとに違いました。ある所では1合あるものが、別の所では1合に満たないということが起っていたのです。始皇帝は1合をしっかりと定め、それに応じた容器を作らせ、全国に配りました。度量衡の統一は、経済や産業の発展に欠かせないもの。始皇帝の時代に、これらは大きく発展を遂げたのです。

「一つの中国」の認識を創り上げたこと

始皇帝の最大の功績とも言えるのが、「一つの中国」という認識を創り上げたことでしょう。
始皇帝以前の古代中国は、いくつもの国に分かれているのが当たり前でした。そこに住む人々の認識もまた、同様でした。

しかし、始皇帝が中国を統一して以来、国が乱立している状態の方が長かったにも関わらず、「一つの中国」と言えるような認識が、人々の中に浸透していきます。これは、現在の中国にもつながるものでしょう。

秦の始皇帝と不老不死

秦の始皇帝は、不老不死を求めた皇帝としても有名です。

古代中国では、不老不死や不老長寿の研究が行われていました。これらの研究を手掛けるのは方士や道士(道教の探究者)と呼ばれた人物たちです。ちなみに、道教を極めると仙人になると言われていました。仙人は信じられないほど長命であるか、不老不死であるとされています。

中国の統一を果たした始皇帝は、最も徳の高い施政者でなければ行えないという「封禅」の儀式を行いました。この儀式はほとんど行われた試しがないほど珍しいもので、余程の人物でない限り「行ってはいけない」ものでした。この儀式を行ってから後、始皇帝は神仙になる道を探るようになります。宮廷に怪しげな方士を招き、アドバイスを受けていました。

一説によると、始皇帝は水銀を不老不死の薬だと考え、服用していたといいます。勿論水銀は猛毒です。始皇帝の死の要因の一つとして、水銀が関係していたのかもしれません。

方士・徐福と日本

始皇帝が信用した方士の中に、徐福という人物がいます。実はこの徐福は、日本と関わりのある人物でもあります。

あるとき徐福が始皇帝に近付き、不老不死の薬を探してくると約束をします。その場所も目星がついていると言い、徐福は始皇帝から準備金を受け取りました。

しかし徐福は、始皇帝に薬を持ってくるつもりなどありません。大勢の若い男女を引き連れ、日本へと亡命しようと考えていたのでしょう。今になっては、徐福が本当に日本に来たのか、中国に留まったのか、定かではありません。
しかし、日本の各地に徐福にまつわる伝説や、彼に関わる品をご神体とする神社などが存在しています。

秦の始皇帝

色々な物語に登場する、実在の人物である秦の始皇帝。その生涯を改めて見てみると、かなり波乱万丈だったことが分かります。また、彼が生きた時代が歴史の大変動期であったことも、見て取れるはずです。

始皇帝の生涯や功績をよく考えてみてください。暴君や独裁者(間違いはないのですが)と言われる彼のイメージが、少しずつ変わっていくことでしょう。そして、フラットな目線で始皇帝が登場する様々な作品を見てみましょう。新たな気づきが得られるはずです。

featured image:Unknown artistUnknown artist, Public domain, via Wikimedia Commons

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