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日本の城と天守閣

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日本の城は外国人にも人気があり、日本が誇り得るものの一つで、それは天守閣の存在にあるでしょう。
何故このような勇壮で美しくもある城が日本で生まれたのかを考えてみました。

地震が多発する日本において天守閣のような建築物の築造を可能にしたのは、戦国時代に何か革新的な建築技術が創り出されたに違いないと先ず憶測したが、資料を調べてゆくとそればかりではないことが判った。

目次

城と天守閣と

中世のヨーロッパでは、城郭はローマ帝国の建築技術の流れを汲んで石造りが一般的である。大地震がほとんどないローマ帝国では、コンクリート技術なども使用して石を積み上げることによって、堅固な城を築くことができた。
定期的に激震が発生する日本においては、現在の鉄筋コンクリート技術を採用せずに石を積み上げて高層建築物を築造するのは困難である。

日本の戦国時代初期までの規模の小さい城郭の築造には、社寺建築も行えるような技術者を必要としなかったが、天守閣のような高層建築物を含んだ大規模な城の築造には、社寺建築の技術者が必要であったという。つまり、天守閣を築造するだけの技術は、すでに日本にはあったのであるが注文主がいなかったということらしい。
ただ天守閣など高層建築物も支え得る石組みの技術は、戦国時代に開発されたとのことである。

穴太衆(あのうしゅう)などの石垣衆という石工集団が石組み作業を請け負っていて、有名な城を支える部分の外壁となる石組みの見事さは、石垣衆の高い技術を示している。
現在、住宅地の側壁部などに適用されている知間石は、側壁の外側方向に各知間石が滑り出さないような形状と寸法を有しており、穴太衆などが側壁部に石を積んで側壁を形成する際に側壁の外側方向に石が滑り出さないように石を積んでゆくのと同じ原理を用いている。

ところで、中国における建築技術をベースにした社寺建築の技術は飛鳥時代から日本に存在していたと言われている。
社寺建築は、釘を使うと長い年月の使用に耐えられないので、全て木組みで組み立ててゆく。このため、組み合わせる木部品それぞれの性質をよく把握することも大切になる。
7世紀に建立された法隆寺がいまだに健在なのは、ベースにこのような地道な努力があったからであると言われている。

天守閣が導入された理由

天守閣が導入され得たもう一つの理由は、新しい時代を開く気概を有した城主がいたからであると思う。
日本最古の天守があったのは伊丹氏が築いた伊丹城であるという記録があるが、その構造は不明で物見櫓程度のものであったという説もある。

織田信長が頭角を現し始めた当時、松永久秀は大和に多聞城という城を築いた。多聞城には高櫓と呼ばれる4階櫓があり、これは天守への移行形態ではないかと言われている。
松永久秀は当初三好長慶に仕え、やがて、足利将軍家や織田信長とも関わりを有するようになり、最後は織田信長と対決関係になり、信長軍に攻められて居城であった信貴山城の天守櫓に火をかけ自害した。

信貴山城の天守櫓は4層であり、安土城の天守のモデルになったと言われている。
岡部又右衛門(おかべまたえもん)は尾張の人であり、熱田神宮の宮大工の棟梁で息子の岡部以俊と共に指揮し、5重7階の天守を含む壮麗な安土城を築き織田信長を満足させた。

最後に

進取の気性に富んでいて新しいものを取り入れ美しさにも造詣がある戦国大名達の力と、飛鳥時代から社寺建築の技術を地道に延々とつないでこられた大工の棟梁などの力と、新技術により美しい石組みを開発した石工集団の人達の力とが一つになって、天守閣や美しい石垣と堀を備えた日本独自の美しい城が実現された。

※画像はイメージです。

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