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人の雨が降った日?!全日空機雫石衝突事故

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ある夏の昼下がり・・・その日は雲1つ見当たらない青空が広がり、暑く、そしてどこか長閑な1日だった。
だが、そんな状況を一変させる耳をつんざくような轟音が空に鳴り響く。

次の瞬間、ある人はきらきらと異常なほどに光る雨が空から降ってくるのを見た。
またある人は黒い豆粒が空から落ちてきたのを目撃する。この時、目撃者たちはまだ知らない。

自分たちの見た「それ」が空中で衝突事故を起こし、バラバラになった飛行機の破片であり、そこに搭乗していた人間であるということを・・・・。

目次

民間機と自衛隊機の衝突、前代未聞の事故の概要

1971年(昭和46年)7月30日、全日本空輸㈱(以下全日空ないしANAと記載)の旅客機、全日空58便と航空自衛隊の訓練中であった戦闘機が空中で衝突。
両機共に岩手県岩手郡の雫石町に墜落、多数の死者を出すという前代未聞の航空事故が発生した。

まずは事故の概要を確認していきたい。

事故の概要

発生日時:1971年7月30日14:02
墜落機:全日空58便(ボーイング727-281)・航空自衛隊機F-86F(訓練機)
発生(墜落)場所:岩手県雫石町上空で衝突、同町に墜落
搭乗者数:全日空58便:乗客155人、乗員7人、合計162人・自衛隊機:乗員1人
犠牲者:全日空58便:乗客155人、乗員7人、合計162人(乗客乗員全員死亡)・地上負傷者1人
生存者:自衛隊機:乗員1人
事故理由:自衛隊機のルート侵入、接触回避行動の遅れ

悲劇までのカウントダウン

民間機と自衛隊機が空中で衝突し、民間機の乗客乗員が全員死亡するというセンセーショナルな事故が起きてしまった。
このような大事故に至るまでに、一体この2機になにがあったのか。

全日空58便サイド

1971年7月30日、全日空58便は12:45発を予定していたものの、前便の全日空57便が遅れていたため、定刻から45分遅れて地上滑走を開始、13:33に千歳空港を離陸した。
定刻遅れこそあったものの、離陸の状況になんら問題はなく、13:46には函館のポイントを通過、次いで高度を上げつつ、宮城県松島のポイントに向け飛行。
天候も安定しており、視界も概ね良好だった。

札幌航空交通管制部管制所には、「松島NDB(NDB:無指向性無線標識のこと。航空機の飛行援助を行うための無線標識)通過は14:11の予定」と通報している。

この後、巡航高度を28,000 ft (ft、約8,500 m)まで機体を上昇させた全日空58便は、操縦を自動に切り替え、到着地の羽田空港を目指してジェットルートJ11L(主にジェット旅客機が使用する24,000ft以上の高度に設定された直行経路、J以下はルート番号、以下航空路と記載)上を飛行している。

この全日空58便には、コクピットに機長、副機長、航空機関士の3人、女性客室乗務員4人の乗員計7人と、乗客155人が乗っていた。

乗客155人のうち、125人は静岡県富士市の吉原遺族会の団体旅行客とその関係者だった。
吉原遺族会とは、戦没者の慰霊事業や戦没者遺族の相互扶助に関する事業を行っている日本遺族会に所属する団体だ。
遺族会旅行客のほとんどが初めて飛行機に乗るお年寄り達で、「ぜひ死ぬまでに飛行機に乗ってみたい」ということで企画されたツアーだったそうだ。

14:00頃には岩手県上空を高度28,000ft(約8,500m)、487kt(ノット、時速約902km)の速度で東京方向へ190度の磁針度を取って順調に飛行を続けていた。

ボーイング727(同型機)
ボーイング727(同型機)
Clint Groves (GFDL 1.2 or GFDL 1.2), via Wikimedia Commons

自衛隊機サイド

同日13:28、航空自衛隊第1航空団、松島派遣隊所属のF‐86F戦闘機2機が訓練を目的として航空自衛隊松島基地を飛び立つ。1機は教官役の1等空尉が操縦する教官機、もう1機は訓練生であった2等空曹(22歳)が操縦する訓練機であった。

訓練内容は大きく言えば、編隊飛行訓練のための訓練だった。
まずは有視界飛行方式で航空自衛隊松島基地を離陸。

基本隊形を始めとし、疎開隊形、機動隊形などの空中でのフォーメーション訓練を行った後、離陸場所である航空自衛隊松島基地に帰投し、自動方向探知機(ADF)による進入訓練を行う予定だった。

なお、訓練空域には横手訓練空域北部の臨時の空域が含まれていた。この空域内において松島派遣隊は航空路の中心線の両側9km、25,000ft (約7,600m)〜31,000ft (約9,400 m)間を飛行制限空域として設定されており、緊急時を除き訓練飛行は禁止されていた。

両機は離陸後、上昇しながら左旋回で海上に出ると宮城県石巻市の東から再度陸上に入る。

その後、秋田・岩手・宮城の3県にまたがる栗駒山方向に機首を向けて上昇を続け、13:40頃には宮城県築館町(現・栗原市)付近上空を高度約12,000ft(約3,700m)で飛行している。
この付近で疎開隊形を取りながらさらに高度を上げ、数分後には教官機は高度約25,500ft(約7,800m)、訓練機は約28,500ft(約8,700m)に到達し編隊訓練を行う。

2機は北上しながら左右の旋回を繰り返し14:00頃、岩手県北西部にある岩手山上空に到達。
岩手山上空で教官機が右旋回、直進、左旋回を行い、それに訓練機が追従する形で飛行した。

このように航空自衛隊松島基地離陸以降、旋回と編隊訓練を繰り返しながら飛行を続けているのだが、この飛行の過程で自衛隊機は致命的なミスを冒している。
教官機も訓練機も全日空58便が飛行する航空路の中に入ったことに気が付いていなかったのだ。

F-86F
F-86F(同型機 / 自衛隊の機体ではありません)

衝突の瞬間

訓練中、教官機が左旋回を行った際、自分たちのすぐ後ろに迫る民間機を発見する・・・全日空58便だ。
危険を感じた教官機は訓練機にすぐに接触回避行動を取るように指示。訓練機を誘導するように右旋回した。

一方の全日空58便は、遅くとも14:02:32秒頃には自機の間近に自衛隊機が飛行していることに気が付いたようだ。

なお、全日空58便にはコックピット・ボイス・レコーダーが装備されていなかったため、衝突時やその前後の状況については千歳飛行場管制所、千歳ターミナル管制所や札幌管制区管制所との交信内容やたまたま付近を飛行していた航空機が傍受した音声や目撃談からの分析になる。

14:02頃、全日空58便機長のブームマイクの送信ボタンが、2度にわたって通常ではあり得ない空押しがされていた。
これを機長が操縦輪を強く握りしめたためだと捉え、管制所との交信内容から考えると全日空58便は次のような行動をとったと推察されている。

14:02 32秒(衝突7秒前)
自機である58便のすぐそばに訓練機が迫っていることを確認し、操縦輪を強く握りしめる。

14:02 36秒(衝突2.5秒前)
訓練機が自機の左斜め前方に急接近してきたのを確認。
緊張状態になり、操縦輪を再び強く握る。

14:02 38秒
訓練機と全日空58便が衝突。
訓練機は教官機からの接触回避行動指示を受けた際、教官機の右側後方におり、教官機を追従する形で飛行していた。

指示を受けて訓練機は自機の右後方に巨大な物体が迫っているのを確認。
回避操作を実施した。
しかし、この時点で自衛隊機の速度は約445kt(時速約824km)、全日空機の速度は約487kt(時速約902km)。

訓練機より全日空機の方がスピードが出ていた上、回避操作によって全日空機の進行方向に向かって旋回し、58便の進路に完全に侵入してしまうという悪手を打ってしまう。

そのため、全日空58便に後ろから追いつかれる形で訓練機と58便は衝突した。

2機の飛行経路
2機の飛行経路
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

162人の命を乗せたまま音速を超えて墜落

衝突直後、全日空58便は体制を崩し、降下し始めてしまう。機体の体制を立て直そうとしたものの、T字尾翼の水平尾翼安定板を激しく損傷したため、操縦機能を失っており、降下を食い止めることは叶わなかった。

コクピットは自力での機体機能の回復は困難と判断したのだろう。
衝突の9秒後、全日空58便は緊急通信を発信する。

「エマージェンシー、エマージェンシー」という機長の決死の声が記録されていたものの、音声の後半は解読不能な絶叫に変わり58便からの交信は途絶えた。

全日空58便の降下速度は音速を超え、約15,000ft(約4,600 m)付近で機体は空中分解。
大破した機体、そして搭乗していた人々は空へと投げ出され、岩手県雫石町内各地に墜落する。上空4,600mから音速を超えて旅客機という巨大な鉄の塊が落ちてくるのだ。
墜落時の衝撃はすさまじいもので、雫石町を含め、墜落地から離れた場所でもその衝撃音と閃光が確認された程であった。

そして恐るべきは、それ程までの衝撃が生きた人間をもろに直撃したということだ。
衝突の衝撃から約10秒後、何が起きたかもわからないうちに乗員乗客は高度約4,600mの空中に投げ出され、そこから地上に真っ逆さまに落ちることなった。

5,000m近い高さから転落した人間はどうなるのか。
墜落地であった雫石町の現場は凄惨を極めた。

人の雨が降った現場

墜落現場の雫石町やその周辺で事故を目撃した人々は、降ってくるそれを「黒い豆粒のようなもの」と表現した。
地上の人々も空の上で一体何が起きたのか、わからない、知らないのだから、それ故の正自身が見たものに対する正直な感想だったのだろう。
しかし、空から降ってきたその黒い豆粒が、飛行機であり、人間だったと知った時の驚きはいかほどのものだったのだろうか。

そして墜落現場に降ってきた、かつては自分たちと同じ人間だったなにかを実際に目の当たりにした人々の戦慄とはどれほどのものであっただろうか。
乗客らの身に付けていた衣服は猛スピードで落下したことにより剝がれ、バラバラになった荷物と共にあちこちの木々に引っ掛かっている。

衣類や荷物だけではない。遺体も同様に木々に引っ掛かっていたのだ。
そのそばには頭部、人によっては腰のあたりまで深々と地面に刺さった遺体も至る所にあった。
なかには高速で地上に叩きつけらたため、肉片が散り散りとなり、ただの肉塊と化してしまった遺体、落下時の衝撃によるものなのか、あり得ないほどに体が伸びきってしまった遺体もあった。

墜落現場に派遣された自衛隊員や警察官、救助作業を手伝わんと駆けつけた地元の消防団員はあまりに惨たらしい遺体の状況に当初は手を付けられないほどだったという。
それでも、生存者がいる万が一の可能性にかけて、遺族の元に愛しい、親しき者の遺体を返すために手を付けるのを躊躇するような状態の遺体を回収しなければならない。

ある人達は地面に突き刺さった遺体を数人がかりで引っこ抜き、ある人は散らばった肉塊や肉片を1つずつ丁寧に拾い集めた。一縷の可能性にかけた救助隊ではあったが、結局、生存者が見つかることなく、全日空58便の乗客乗員全員の死亡が確認された。

雫石町の風景

一命を取り留めた訓練機パイロット

衝突したもう一方の自衛隊訓練機は全日空58便と同様に操縦不能となり、錐揉み状態に陥った。
唯一の乗組員である訓練生は非常脱出を試み、射出座席装置を作動させようとしたものの、作動のためのレバーに手が届かず、動かすことができなかったため射出できなかった。しかし、なんとか自力で安全ベルトを外して機体から脱出。

装備していたパラシュートで降下し、命からがら雫石駅東南にあった水田に降り立ち、なんとか生還を果たした。
操縦者を失った訓練機は58便同様に空中分解し、田んぼに墜落。
訓練生がもしも自力で脱出できなかった場合、全日空58便の乗員乗客と同じ運命を辿っていたことは明白だろう。

衝突の原因はなにか

大惨事となってしまった全日空機と自衛隊機の衝突事故。
様々な原因と不運が重なった結果によるものではあるが、主たる原因はいったい何だったのだろうか。

調査開始

現在であれば、航空・鉄道・船舶に関する事故が起きた場合、運輸安全委員会がすぐに調査に乗り出すことになっている。しかし、この全日空機雫石衝突事故が起きた際、運輸安全委員会はおろか、前身である航空事故調査委員会も日本国内に存在していなかった。
そのため全日空機雫石衝突事故については、総理府内に緊急的に設置された全日空機接触事故調査委員会が調査に乗り出した。

この調査委員会の名称、「全日空」の社名は入っているものの、「自衛隊」ないし衝突した相手が自衛隊であるとわかる名称が入っておらず、違和感を感じる。
できる限り自衛隊の関与を窺がわせないように、という日本政府の苦心が垣間見えるようだと思うのは筆者だけであろうか。

事故調査報告書に指摘された事故原因

事故調査報告書によって、最終的に主要な事故原因が示された。

  1. 自衛隊機が訓練空域を逸脱して全日空58便が航行する航空路の中に入り込み、かつ、入り込んだことに気が付かずにそのまま訓練を行っていたこと。
  2. 全日空58便は接触する直前まで回避行動をとらなかったこと、自衛隊機の回避行動が遅かったこと。

以上の2点だ。

全日空機の飛行ルートへの自衛隊機侵入

1の自衛隊機航空路侵入については、言わずもがな、この事故の根本的原因と言えるだろう。
教官が指揮した機動隊形の旋回訓練は本来、上下・前後・左右の360°、広いスペースを使用して実施されるべき訓練だった。しかし、この事故においては旋回訓練を比較的狭い空間で実施しており、自衛隊機が自機の正確な位置を誤認する要因になったと考えられる。
その上、自衛隊機は自機の位置確認を地上の海岸線や各種目印などを見て自機の位置を推定しながら飛行する地文航法と呼ばれる初歩的な航空航法のみで飛行していた。

そのため、自衛隊機が自機の正確な位置確認を把握できておらず、訓練飛行が原則禁止されている航空路侵入に気が付かなかったのだ。
また、その後の刑事裁判において、自衛隊機の飛行開始前の訓練計画も杜撰だったことが指摘されている。

本来使用予定だった別空域を他の航空団が使用することになっていたことが、訓練当日に判明し、慌てて盛岡の空域を訓練に割り当てた。
訓練空域を決定した上官らは、この盛岡空域に航空路が通っていることや具体的な空域を説明していなかったことがわかっており、安全性を重要視する視点が欠如していたことが窺がえる。

接触回避行動の遅れ

2の両機共に接触回避行動をとらない、とった行動が遅すぎたという点については、自衛隊側にも全日空側にも接触を回避できるタイミングがあったのではないかという点が検証されている。

事故調査報告書内では、全日空機、教官機、訓練機の3機の視野を考えると、少なくとも接触の約20秒前に互いを視認できる可能性があったとされている。しかし、視野に加えて3機の位置から考えると、全日空58便とって、訓練機は注視野(一般的に44°~50°)の外にあった。

実際、全日空58便の機長は接触前後の操縦内容から、少なくとも接触約7秒前から訓練機を確認できていたと考えられている。にも関わらず、具体的な接触回避行動をとった形跡はない。

これは邪推になるが、自機の前に突然自衛隊機が現れて驚いたという心情、しかもその自衛隊機が訓練飛行中で通常ではありえない動きをしており、その後の動作が読めないという考えやまさか自機の飛行経路をこのまま自衛隊機が飛行するはずないだろうから状況を注視しようという考えが脳裏をよぎったゆえのものではないかと思う。

事後の大惨事を思えば、「甘い考え」、「命を預かる者としていかがなものか」と言われるのかもしれないが、予想外の乱入者の出現とその自衛隊機の次の動きが読めない状況下で実際の接触まで約7秒しかなかったことを考慮すれば、全日空機に非を押し付けることはいささか酷な気がする。

一方、自衛隊サイドはどうだろうか。

事故調査報告書によれば、訓練機は位置的に前方を見ていようが、教官機を見ていようが、全日空58便は注視野外にあった。しかし、教官機側において、教官が前方のみを見ていた場合、全日空58便は注視野内に現れないが、教官が訓練機を目視で確認していたなら、少なくとも接触30秒前には教官の注視野に全日空58便が見えていたはずだったと指摘されている。

いくら自機が民間機の航路に侵入していた認識がないとはいえ、安全確認の義務があった教官機はもっと早く全日空58便の存在に気が付かなければならなかった点については看過できない。
この認識の遅さが訓練機への接触回避指示の遅さに繋がり、果ては訓練機と全日空機の接触に繋がったのだろう。

考えられる事故原因と重なる不運

このように、今回の全日空雫石衝突事故の主要な原因は、

  1. 自衛隊機訓練計画の杜撰さ
  2. 自衛隊機による全日空58便飛行ルートへの侵入
  3. 飛行中の安全確認と接触回避行動の遅れ

だと考えられる。

計画段階で民間機飛行ルートの確認を怠らなければ、教官機・訓練機による航空路侵入の可能性は低かっただろう。
そして航空路が訓練空域に含まれていることが予めわかっていれば、教官機、訓練機共により一層の注意をはらって飛行していたと考えられるし、そもそも航空路を避けて訓練していただろう。

加えて、ここからは偶然の重なりという話になってしまうが、もしも全日空58便が定刻通りのフライトをしていれば、訓練機の搭乗していたパイロットがもう少し経験を摘んでいた人物であれば。

フライトが定刻通りにいかないことはよくあることだし、訓練生はそもそも経験を積むために訓練飛行をしていたのである。
しかし、こういった少しの不運が事故発生の1ピースを形成したのだと思うと悔やまれることではある。

航空機のイメージ

当事者たちのその後

事故後、自衛隊・国、そして全日空は裁判を通じて裁かれ、そしてその後の人生を歩んでゆく。さらに全日空機雫石衝突事故は今迄の日本の空の事情を一変させるターニングポイントとなった。

刑事裁判の結果

衝突事故を起こした訓練生と彼を指導する立場にあった教官は事故発生から約33時間後、岩手県警によって逮捕されている、業務上過失致死と航空法違反の容疑で起訴された。

起訴内容は最高裁まで争われ、訓練生に対しては、訓練空域の詳細な情報や航空路の経路を知らず、接触前、全日空機は訓練生の注視野外にあったため、見張り注意義務違反は認めれられず、無罪が言い渡された。
教官に対しては注意義務違反があったと認定され、禁固3年執行猶予3年の判決が言い渡されている。

そもそもの事故原因の大元は訓練命令を出した教官・訓練生の上官らの杜撰な訓練計画にあると思うのだが、最終的に上官らが起訴されることはなく、裁判の場において自衛隊幹部の責任が問われることはなかった。
事故当初、訓練命令を出した部隊長も捜査の対象となったはずだが、起訴に向けての決定的な証拠が揃わなかったのか、起訴は見送られている。

以後に同様の事故を引き起こさないためにも、どのように訓練が計画され、実際の飛行に至ったのか白日の下に検証が必要だったと思うのだが、腑に落ちない。

民事裁判の結果

全日空機雫石衝突事故では、民事裁判も起こされた。
事故の遺族は国(自衛隊)に対して損害賠償を請求した裁判が起きており、国から遺族に対して賠償金が支払われている。

加えて全日空や保険会社が事故による営業損失や損壊した旅客機の保険代を求め、国に対して損害賠償等を求める訴訟を起こし、さらに国が全日空に対して事故で喪失した戦闘機の請求と被害者遺族に支払った賠償金はあくまで「立て替えたものだ」として損害賠償等と求める反訴を提起。

国と全日空が裁判で全面的に争うことになった。

最終的には東京高裁において、「自衛隊が設定した訓練空域自体に過失があり、かつ見張り義務を怠った」、「全日空機も衝突7秒前に決断すれば衝突を防げた可能性があるにも関わず、回避措置をとらなかったという過失があるものの、航空路の保護空域内であり過失の程度は小さい」と双方に責任があったことを認定。

過失割合はおおよそ国2:全日空1とされ、決着した。

教官と訓練生のその後

裁判にて有罪判決を言い渡された教官は、自衛隊法の規定により失職。
以後、パイロット職に復帰して操縦桿を握ることもなく、市井の人として暮らしたようだ。

訓練生は最高裁判決で無罪が確定したため、自衛隊を失職することはなかった。
しかし、法的責任はないと認定されたとはいえ、自らの操縦によって162人の命が失われてしまった事に対して相当に思うところがあったのだろう。

判決後、それまでの戦闘機パイロットから救難機パイロットに転向。
いわゆるメディックの一員として、2003年の定年退職の日まで人命救助の任務に就いたそうだ。

救難隊のモットーは、「他の人を生かすために・かけがえのない命を救うため」である。
元訓練生はきっと自らの任を全うするその日まで、尊くも時に簡単に消えてしまう命の灯に向き合い続けたのだろう。

事故をきっかけに変化した空の安全

全日空機雫石衝突事故後、空を取り巻く状況は一変。
事故を教訓に空の安全を守るために、法改正や技術導入が進んだ。

事故から約1週間後、「航空安全緊急対策要綱」が発表され、

  1. 自衛隊訓練空域と航空路を完全分離する
  2. 訓練空域については防衛庁長官(現:防衛省大臣)と運輸大臣(現:国土交通省大臣)が協議して公示する
  3. 域内を飛行する航空機はすべて管制を受ける

ことが決定された。

また、1975年には航空法も改正となり、

  • 航空管制空域内での曲技飛行と訓練飛行の原則禁止
  • 空港周辺空域内の通過飛行禁止と速度制限
  • 特定空域の高度変更禁止と速度制限

といった運航ルールの厳格化や、

  • 見張り安全義務とニアミス発生時の報告義務
  • トランスポンダとフライトレコーダー等の装置の装着義務

が明記され、これらの規制が民間機のみならず、自衛隊機にも適用されることになった。

全日空機雫石衝突事故を回避するために必要だった条件を満たすための法改正とも思える内容で、日本の空の安全のターニングポイントとなったことは言うまでもない。

森のしずく公園

衝突事故から約4年後の昭和50年(1975年)10月10日、162人の犠牲者を弔う為に雫石町に「慰霊の森」が竣工され、慰霊堂、慰霊碑、航空安全祈念の塔や供養塔が設置された。
長年にわたり地元住民や遺族会、全日空社員によって管理維持され、2020年には「森のしずく公園」に名称が変更されるものの、事故から50年以上経過した今でも献花や礼拝などが続けられている。

一方で、人気YouTuberがこの地を心霊スポットとして面白おかしく紹介する(現在動画は非公開になっている)など、心霊スポット化してしまっている。
公園のある場所もひっそりとしており、たしかに雰囲気はあるのだが、ここはあくまで鎮魂の場であることから肝試し感覚で訪れることは辞めてほしいところだ。

また全日空58便の機体は高度4,600 mで空中分解して、残骸・遺体は雫石駅を中心とした広範囲に落下しており、この場所に直接墜落、人が落下してきたという訳ではないので、むやみに心霊スポットと騒ぎ立てるのもお門違いである。

最後に

162人もの尊い命が犠牲となった全日空雫石衝突事故。
怠慢とほんの少しの運命のズレが大惨事を引き起こすという事実をまざまざと私たちに突きつけた事故であった。

この事故によって日本の空の安全は飛躍的に改善されたものの、この事故自体の責任の在処が本当に検証されつくしたのか疑問が残る一件でもあった。

どんなに法整備が進み、安全を追求する技術が向上しようとも、航空機を操縦するのが人間である限り、少しの油断が悲劇を招く可能性がるという事実を変えることはできない。

私たちはこのような事故が起こらないよう、これからも空の安全について考え続けなければならないのだ。

参考文献
全日本空輸株式会社ボーイング式727-200型,JA 8329および航空自衛隊F-86F-40型,92-7932 事故調査報告書

※画像の一部はイメージです。

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コメント一覧 (1件)

  • 近県在住ということもあり、発生から50余年が経過していますが詳細が気になる航空事故でした。私見を加えた記事は読み応えもあり、大変参考になりました。一時の慢心が重大な事故を招くことを感じました。ありがとうございます。

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