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崇峻天皇弑逆事件が暗示するもの~蘇我氏天皇説~

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わが国の歴史上最大の暗殺事件、それは6世紀に起きた崇峻(すしゅん)天皇暗殺だろう。
おそれ多くも、スメラミコトが人臣に弑し奉られるという大逆。

主導した黒幕も、手を下した実行犯も日本書紀にはっきりと記されている。
にもかかわらず黒幕は孫の代まで権勢をふるい続けた。

謎やツッコミどころが満載なのに、なぜか黙殺されがちなこの事件。
それはおそらく、真相が明らかになると困る人たちがいるからだ。

目次

暗殺されたのにマイナーな崇峻天皇とは?

古来、暗殺されたと推測される天皇は何人かいる。
崇峻天皇は、臣下によって弑逆されたケースとして歴史学的に確定しているただ一人の人物。主犯は大臣(おおおみ)の蘇我馬子。
刺客は渡来系氏族の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)。これらは正史・日本書紀に明記されている。

時は聖徳太子が表舞台に登場する直前のこと。崇峻は蘇我氏と物部氏の政争に乗じ、馬子に推されて即位した天皇だった。
欽明天皇の第12皇子であり、母は馬子の妹。血縁関係がややこしくて疲れるが、ポイントは馬子の甥であり、敏達・用明・推古天皇の異母弟であり、聖徳太子の叔父であるというところだろう。
日本書紀による崇峻の設定は以上のようになっている。
設定と書いたのは、書紀が伝える皇族系図、元号、歴代天皇および没年にはトリックがあると思われるからだ。

時代が下って8世紀初頭、書紀の編纂が最終段階を迎えたころの権力者は藤原不比等。
不比等は、クーデターにより蘇我氏から権力を奪取した藤原氏と天智系皇統の正当性を示すために歴史を改竄する必要に迫られた。
乙巳の変(大化の改新)で蘇我入鹿を誅殺し、蘇我蝦夷を自害に追いやった父・中臣鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇)の正義を後世に知らしめるには、蘇我氏に悪者になってもらわなければならない。
思惑通り、崇峻天皇弑逆事件は蘇我氏の悪行の最たるものとして世に残った。

であれば、馬子黒幕説にも疑いが及んで当然だ。

即位から暗殺までの流れ

日本書紀は以下のように記している。
587年に用明天皇が崩御すると、物部守屋が穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立。穴穂部は崇峻の兄である。
対して馬子は穴穂部を亡き者にする。これをみた泊瀬部皇子(はつせべのみこ/のちの崇峻天皇)は馬子に恭順。物部連合軍と戦い、勝利する。そして天皇に即位。
しかしその後、馬子と対立。

592年、崇峻は献上品の猪を前に、「いずれの時にか、この猪の首を斬るがごとく、朕が嫌(ねた)しと思うところの人を斬らむ」ともらす。
これを耳にした妃の小手子(おてこ)は、寵愛が衰えたことを恨んで馬子に密告。馬子は天皇にうとまれていることを知り、先手を打つ。

東国から使者を迎えると偽って崇峻を誘い出し、東漢直駒に暗殺させた。さらに愛娘を我が物にしたとして口封じのごとく直駒も殺害する。
臣下による王殺しは太逆であり、蘇我宗家滅亡をもたらすものであるのに、馬子が罰された記録は一切ない。
また天皇暗殺という非常事態下にもかかわらず、内外に動揺すら生まれていない。

浮かびあがる謎

崇峻はその日のうちに埋葬された。即日に埋葬された天皇は、知りうる限りほかに例をみない。殯(もがり)が行われなかったのだ。
殯とは、天皇をはじめとする高位な人物に行う葬喪儀式のひとつ。玉体を棺に納め、長期間安置する鎮魂の儀のことで、この時代には重要視されていた風習だった。

天皇とされる人物がこの手順を省略してすみやかに埋葬された場合、記録上の即位や死因はうのみにできない。天皇位に準じた弔いが行われなかったことを意味するからだ。
崇峻は墓所も不明であり、延喜諸陵式には「無陵地、無戸」と記載されている。これは無縁仏と解釈できる。
さらに崇峻には皇后に関する記録もない。妻はいずれも妃、嬪、夫人であり、皇后ではなかった。即位と同時に皇后をたてるのが通例ではないのか。

崇峻は本当に天皇だったのか。仮に非即位だったとすれば、歴史から消された天皇は誰なのか。馬子しかいないのだ。
逆転した政治力学で暗殺事件をながめると、大逆ではなく粛清の構図になる。崇峻は罪人として葬られた可能性がある。
そしてさらに疑問が浮かんでくる。聖徳太子の事績とされているものは、本当は誰の功績だったのか。

不比等が仕掛けた一大プロジェクト

崇峻のあと、皇位は推古→舒明→皇極へと継承されていく。しかしこの約60年は、馬子から孫の入鹿にわたる蘇我王権の時代だったのではないだろうか。
蘇我氏は臣下に禁じられていた八?(はちいつ)の舞を祖廟で舞わせた。墓は「陵(みささぎ)」、邸宅は「宮門(みかど)」、子は「皇子」と呼ばれ、天皇が授ける大臣の職位を与えていた。
朝廷の歴史書である『天皇記』『国記』は蝦夷邸の書庫にあった。
「蘇我氏は臣下」という視座でみれば、こうした行為は「不敬」「専横」となる。

けれども天皇の権威を示すためには、むしろ「天皇が臣下に弑逆された」という文言こそタブーだったはずだ。
暗殺された可能性がきわめて高い天智については病死としているのに、なぜ崇峻は「殺された」と明記したのか。そこには編纂者の政治的な意図があったと思わざるをえない。
「有史以来、臣下に殺された天皇は崇峻のみ」と言いたかったのではなく、「有史以来、天皇を殺した逆臣は蘇我馬子のみ」という点を強調したかったのではないか。
だとすれば、崇峻は暗殺される天皇を演じるために即位させられたことになる。

日本書紀の厄介なところは、崇峻を天皇としておきながら、蘇我王権の存在を匂わせる記述も盛り込んでいることだ。このような体裁は同事件に限ったことではない。
「真実をちゃんと書いていますよ。読者が気づかないだけです」ということなのか。
過去の王朝が編纂した正史ではなく、現在の王朝による公式文書ということに驚かされる。

不比等が日本国に仕掛けた長期プロジェクトは、1300年を経た今も成功しているといえそうだ。

※この記事では「大王(おおきみ)」を「天皇」、「王子」を「皇子」と表記しています。
※画像はイメージです。

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