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本当はこわい菅原道真!表の顔は学問の神、その正体は祟り神?

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時は平安、醍醐天皇の御代。
魑魅魍魎がうごめく雅やかな平安京に菅原道真の怨霊があらわれた。
「憎さも憎し、藤原時平。時平はいずくにぞ……」。
そして時平の周辺と京の都に次々と災厄が起こりはじめる。

目次

日本古来の御霊信仰(ごりょうしんこう)

祟り神を祀る神社は意外と身近に存在する。
祟り神の有名どころは、やはり日本三大怨霊とされる崇徳天皇、平将門、菅原道真だろう。いずれも非業の死をとげたあと怨霊が朝廷に災いをなしたと伝えられ、これを鎮めるために神として祀られた。

古来日本には、疫病や天災を怨霊の祟りとみなして恐れ、その霊を御霊として鎮魂し手厚く祀って守り神とする御霊信仰があった。
○○天満宮と呼ばれる社はすべて道真を祀っている。マイナー調が冴えわたるわらべうた『通りゃんせ』の「天神様」も道真をさす。

徳川家康は江戸城の丑寅に将門を鎮座させ、鬼門封じをした。
これが現在の神田明神。
崇りが強大であればあるほど、守護神になった時の神威も超弩級。それが祟り神だ。

陰謀による転落

菅原道真は幼少期より詩歌に秀で、神童と称された。長じてからは朝廷に仕える文章博士(もんじょうはかせ)となり、宇多天皇の厚い信任を得て要職を歴任。天皇は道真を重用して皇室の外戚・藤原氏を牽制する。

やがて藤原時平が台頭し、道真と時平の両頭体制に。この体制は宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位したあとも続いた。
しかしこの頃から道真に対する周囲の嫉妬とともに、藤原氏を筆頭とするマロたち(エリート公家)との波風が表面化するようになる。
道真を待っていたのは謀略と左遷だった。

昌泰4年(901)、道真は、「宇多上皇を惑わした」「醍醐天皇を廃して娘婿の斉世親王を皇位につけようと企んだ」という虚偽の密告をされ、その罪により大宰府へ左遷される。
宇多上皇は醍醐天皇に面会してとりなそうとするが、衛士に阻まれてかなわなかった。
道真の四人の子は流刑に処された。
筑前国への道中は官吏としての処遇を取り上げられ、監視がついた。大宰府では政務をとることを禁止され、従者を持つことも許されず、衣食にも事欠いた。事実上の流刑といえるだろう。

落ちぶれた姿を見にくる人々、家族や親族まで累が及んだこと、かつて天皇へ忠心を誓った自分への嘆きが『菅家後集』に綴られている。身の潔白を天に祈り続けた道真は、延喜3年(903)、失意のうちに59歳で客死した。

有名な歌がある。
「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」

相次ぐ変死事件

道真の死後まもなく、延暦寺の僧侶・尊意が鴨川で道真の霊を見た。
尊意が川面に目をやると水流が割れ、そこからのぞいた岩の上に道真があらわれた。霊はすぐに消えてしまったというが、これは報復の意思表示だったのだろうか。このあと都では不気味な現象が相次ぐことになる。

一人目の死者は密告者の一人であり、道真に代わって右近衛大将に就任した藤原定国。同じく偽りの報告をした藤原菅根(ふじわらのすがね)も雷に打たれて死去。
道真の祟りだという風評が流れだすなか、怨霊はいよいよ本性をあらわしていく。

首謀者の藤原時平はすでに病の床にあり、僧に加持祈祷をさせていた。僧の父が時平を見舞うと、時平の両耳から二匹の龍がすーっとあらわれて、こう告げた。
「時平に祈祷をしたとて、むだなことよ」

時平の死後、道真の後任として従二位を務めた源光が鷹狩りの最中に沼に落ちて行方不明に。さらに醍醐天皇の東宮・保明親王が薨去。
震えあがった殿上人は道真を鎮めるため、左遷前の役職・右大臣に復位させ、正二位を追贈。しかし怨念は鎮まることなく、保明親王の皇子・慶頼王、時平の長男・保忠が続いた。

そして清涼殿落雷事件が起こる。

天満大自在天神の誕生

延長8年(930)6月26日の清涼殿落雷事件では朝廷の要人に多くの死傷者がでた。
干ばつ対策会議が行われていたこの日の昼過ぎ、にわかに真っ黒な雲が空を覆い、激しい雨が降りはじめた。そして一瞬の閃光とともに轟音がとどろき、雷が直撃。清涼殿は災とともに無残に崩れ落ちた。

大納言・藤原清貫は即死だった。清貫は時平の指示により、「見舞い」と称して大宰府の道真を訪ね、状況をつぶさに報告していた人物。この落雷事件の衝撃から醍醐天皇も体調を崩し、まもなく崩御してしまう。
不穏な空気は京の都だけのことではなかった。世はすでに争乱の兆しをみせていた。落雷事件からわずか10年たらずのうちに、東国で平将門の乱が勃発する。

落雷事件以降、都人は道真を雷神と恐れた。
北野の地に祀られたのは、北野の地主神が火雷神だったからだ。乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に立った道真が、「北野の地に祀られるならば怒りも鎮まることであろう」と告げたとも伝わる。
古来からの天神に道真の霊威が乗り、これが北野天満宮として発展した。やがて全国に広まった祟り封じの天神様は、祟りの記憶が風化するにつれて学問や書の才が注目され、学問の神として性格づけられるようになった。

祟り神はその性質から、ことさらに手厚く祀られる傾向にある。
敵に回せば祟り神、味方につければ福の神。
ご加護を授かるも災厄を受けるも向き合い方しだいということか。

※写真はイメージです。

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