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英国戦闘機スピットファイアの魅力について語りたい

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第二次世界大戦期を代表する戦闘機と言えば、日本では通称・ゼロ戦の零式艦上戦闘機が最も知名度の高い機体である事は間違いないと思うが、アメリカならばP-51マスタングがその筆頭に挙げられる事だろう。
ここから欧州に目を移せばドイツであればこれにはメッサーシュミットBf109が相当し、同様にイギリスでその座にあるのは、スーパーマリン スピットファイアである事は衆目の意見が一致するところと言えよう。

イギリスのスーパーマリン スピットファイアが傑出している点は、数々の戦闘機が適宜投入されていった第二次成果大戦において、その当初から終わりまで、いやその後も長年にわたって使用された実績にある。
ドイツ空軍・ルフトバッフェとの戦いにおいて母国の空を守り抜き、イギリスの勝利に大きな貢献を果たしたスーパーマリン スピットファイアについて僭越ながら振り返ってみたい。

目次

イギリス空軍の代名詞的戦闘機 スーパーマリンスピットファイアの生い立ち

スピットファイアは、イギリスの航空機製造企業スーパーマリン社の主任設計技師であったR.J.ミッチェルの遺作となった戦闘機であり、同国空軍が1931年に次期戦闘機を求めた事に応じて開発が始められた。

この時のイギリス空軍の仕様は最高速度時速404キロメートル以上と、後の第二次世界大戦時のレシプロ戦闘機でも同700キロメートルを超過する機体が出現した事を鑑みれば決して高い数値ではないようにも見える。
しかしR.J.ミッチェルがここで試作した最初の戦闘機・224型はガルウィング構造の単葉機だったが、イギリス空軍の選からは漏れた後、300型としてスピットファイアの最大の特徴である楕円翼の採用に至る。
楕円翼とは上下から主翼を見た場合にその先端の形状がサーフボードのような楕円形をしている形式のもので、1936年3月に時速550キロメートルを超える速度を記録、6月にイギリス空軍の発注を得て周知のスピットファイアとなる。

スピットファイアに楕円翼が採用された理由は、機体の操縦を容易にし、エンジンの出力を活かして敵の爆撃機を要撃する事を目的としており、総合的な機体全体のバランスを高める点にあったと言われている。
また敵戦闘機との格闘戦においても楕円翼の持つ運動性能の高さに狙いにあったとされるが、極めて薄いその主翼の中に兵装である機銃類と引き込み式の主脚を実現できている事が技術的にも注目された。

スピットファイアの様々なバージョンアップ

スピットファイアの最初のバージョンはMk.Ⅰ/Ⅰaと呼ばれ、1939年までにイギリス空軍からの発注数は2,160機を数え、実戦配備は1938年8月から随時行われたが、このタイプのエンジンは最大出力が1,030馬力程であった。
翌1939年9月にはナチス・ドイツがポーランドへと侵攻した事によって第二次世界大戦が勃発するが、この時点でのスピットファイアの配備数は少数に留まり、イギリス空軍の主力戦闘機とまでは言えなかった。

更に翌1940年7月にはフランスをも降伏させたナチス・ドイツがイギリスへの空戦を仕掛け、これが今日「バトル・オブ・ブリテン」と呼称されている世界最大規模の空中戦となり、同年10月末まで続く戦いとなる。
イギリス空軍はこの「バトル・オブ・ブリテン」において352機ものスピットファイアの損失を被るが、その生産工場には女性までも動員した徹底的な増産体制が敷かれ、兵装を20mm機関砲した改良型のMk.Ibを送り出す。

以後もスピットファイアはMk.Ⅱ、Mk.Ⅲと改良を続け、最終的にはMk.24と呼ばれるまでバージョンアップを繰り返し、後期型ではロールス・ロイス社製の2,000馬力を超える出力のエンジンを搭載、最高速度も時速700キロメートル以上に達した。
これらスピットファイアの累計での総生産数は20,000機を超え、イギリス空軍以外にも中東地区のエジプトやシリア、イスラエルにも輸出された為、それの国々による中東戦争では同機同士の空中戦が展開されている。

スピットファイアを彩る有名すぎるエピソードと映像作品

近年においてスピットファイアの存在感を再び世に知らしめたと思しき映像作品としては、2017年に公開された英・仏・蘭・米の4ケ国合作である「ダンケルク」が最も記憶に新しいのではないだろうか。
「ダンケルク」は1940年5月下旬から6月上旬に生起した戦いを描いた作品である。ここではナチス・ドイツに追い詰められたイギリスやフランス等の連合国の兵士が、フランスのダンケルクから奇跡の撤退を行う様子が描かれている。

この映画「ダンケルク」の中でスピットファイアは、ダンケルクの友軍への爆撃を敢行しようとするドイツ空軍航空機に果敢に挑み、絶望的と言われた状況から30万人以上の友軍の撤退を成功させる一助を担った。
またスピットファイアを語る上で必ず取り上げられるエピソードとして、ドイツ空軍・ルフトバッフェの総司令官であったヘルマン・ゲーリングと当時の同軍の高名な戦闘機パイロット、アドルフ・ガーランドの逸話がある。

ガーランドは「バトル・オブ・ブリテン」の渦中で自らも2度もスピットファイアによる撃墜を被っており、ゲーリングから自軍の勝利に何が必要かを問われた際、同機の配備を要望すると答えた事が語り草となっている。
ガーランドは最終的に104機の撃墜数を達成し空軍中将に迄昇進、第二次世界大戦を生き抜き戦後はイギリスに戦犯として収監されたが5年で釈放され、1996年に死亡するまで長寿だった為、この逸話の信憑性は高い。

「バトル・オブ・ブリテン」でナチス・ドイツが勝利を得られなかった理由としては、イギリスの当時の世界で最も進んでいたレーダー技術とそれを活かした迎撃戦術が挙げられる事が多いが、スピットファイアもその必須の要素と言って良いだろう。

日本との太平洋戦争にも投入されたスピットファイア

日本との太平洋戦争においてイギリスは、開戦劈頭にアジアにおける一大拠点であったシンガポールを攻略され、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」や巡洋戦艦「レパルス」をマレー沖海戦で失うなど大打撃を受けた。

以後の日本はアメリカとオーストラリアの連絡を遮断する目的でオーストラリアへの攻撃を本格化した為、1942年6月にイギリス本国からオーストラリアにスピットファイアを装備する3つの飛行隊が送り込まれる。
そして翌1943年2月にこれらの飛行隊のスピットファイアは、初めて日本の零式艦上戦闘機と対戦、「バトル・オブ・ブリテン」と同様にレーダーによる優勢な戦いが予期されるも、実際の格闘戦で大きな損失を被った。

これは「バトル・オブ・ブリテン」においては、ドイツ軍のメッサーシュミットBf109等の主力戦闘機に対して格闘性能で上回っていたスピットファイアだったが、第二次世界大戦初期の最良の戦闘機とも称されるゼロ戦相手には分が悪かったようだ。
それでもスピットファイアはビルマ戦線での日本陸軍の戦闘機等との攻防でも一定以上の戦果を挙げており、ゼロ戦の運動性能が格闘戦においては桁違いだったと考えて差し支えないだろう。

スピットファイアの本質

スピットファイアはその流麗なフォルムと特徴的な楕円翼のデザインから、現代の日本でも戦闘機に詳しくない方であっても必ず一度は目にした事がある筈と言って良い、第二次世界大戦時のイギリス空軍を象徴する機体である。

と同時に日本やドイツでの戦闘機乗り達の中から、多数のエース・パイロットと呼ばれる撃墜王が輩出されている印象と比較すると、特にゼロ戦との空戦で苦戦を強いられた事もあってか地味なきらいも否めない。
しかし累計で20,000機と言う生産数は、ゼロ戦の同10,000機の倍にも達する数字であり、イギリスの工業生産力の底力を物語るものとも言え、一時代を築いた名戦闘機である事には些かの疑いの余地もないだろう。

featured image:Royal Air Force official photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

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