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玉砕島からの奇跡の生還者

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玉砕島からの脱出者はどのようにして生還したか?

目次

太平洋戦争の掟

太平洋戦争ではグァム・サイパンを始め多くの離島で米軍の上陸作戦が行なわれ、補給を断たれた日本軍守備隊が次々と玉砕したと言う悲惨な歴史がある。「玉砕」とは全滅を美化するために軍部が考え出した表現で、「玉のごとく潔く砕け散る」という趣旨の言葉である。
ただし、実際には指揮官が玉砕電を大本営に発信した後も多くの日本兵が島に潜伏・抵抗していたのが実情であり、終戦後に捕虜となった日本兵も多い。

しかし中には孤立した島から何とかして脱出を図る兵たちも多く居たとされている。だがそのほとんどは不成功に終わり、なんの記録も残さないまま多くの兵が南海の波間に消えて行ったのである。

そんな中で唯一、玉砕島から脱出した日本兵が数か月の漂流の末に奇跡的に日本の潜水艦に遭遇、捕虜にもならず生きて日本の地を踏んだと言う例がある。ところがこれは正式な軍の記録には一切残されていない。なぜなら玉砕した島の兵が生きているはずがないと言う軍の冷徹な掟があったからだ。

昭和19年12月

昭和19(1944)年12月30日の夜明け時。
4基の「回天」を積んだ伊47潜水艦がニューギニアのホーランジア港の米軍艦船攻撃のためグァム島の西約500キロ付近を南下していた時のことである。回天とは有人魚雷であり伊47はまさに十数日後には特攻作戦を実施するというところ。
艦内では川久保輝夫中尉以下4人の回天搭乗員が特攻作戦を目前に控えていた。

山口県周南市 回天記念館の回天(レプリカ)

この時艦長の折田善次中佐は「前方に大きな浮遊物」の報告を受けた。夜明けになるのでそろそろ潜航しようとした矢先の事だった。
さらに、「人が乗っているようです」と言うので折田艦長はおそらく不時着したB29か何かの搭乗員だろうと思い、通訳の出来る大堀大尉を武装させて艦橋に上げて様子を見させた。すると必死に身を隠してはいるが明らかに手足が動いているのが見える。大堀大尉はこの時英語ではなく思わず日本語で「おーい!」と声をかけてしまったのだが、なんとその人影は日本語に反応して起き上がったのである。起き上がったのは海軍の帽子をかぶった将校だった。

一緒にいたのは軍属も含めて合計8名で、なんと彼らは数か月前にグァム島から脱出してきたと言う。
この時、折田艦長は彼らを助けたものか、水と食料を与えてフィリピンの方角を教えて突き放すか、非常に迷ったと言う。なぜなら伊47は特攻作戦の途上であり、ここで彼らを救ってもその後の伊47の運命も全く分からないからだった。

By 日本語: 日本海軍English: Imperial Japanese Navy [Public domain], via Wikimedia Commons

この時回天搭乗員の川久保中尉が折田艦長に、彼らを救って自分たちの代わりに必ず日本に連れて帰ってほしいと強く進言し、折田艦長はその言葉で彼らを収容する決心をしたと言う。

グァム島から脱出してきたのは

グァム島から脱出してきたのは海軍の伊藤京平少尉以下8名で、グァム島が玉砕した8月10日以降に筏で脱出、まるまる3か月以上も海の上をさまよっていたのである。

彼らはまさか目の前に現れたのが日本の潜水艦だとは思いもよらず、ひたすら身を隠して最後の瞬間を覚悟していたと言う。救助後伊藤少尉は、グァム島にはいまだに数千人の日本軍兵士が残って抗戦を続けていると証言した。

玉砕とは名ばかりの現状を訴えたのだが、無線封止の作戦途上の事でもあり、折田艦長は回天でのホーランジア攻撃後、翌年1月28日無事に呉に帰投するまで、この救助者とグァム島の状況については何も報告しなかった。

public domain

帰投後の軍の判断

ホーランジアでは4基の回天が発進、折田艦長は明瞭に艦船攻撃の大爆発音を2回確認したが、アメリカ側では被害の記録は残っていない。戦後、折田氏はこのアメリカ側の記録について不信感を抱き続けていたようである。

脱出した8名は呉に帰投後、あり得ないはずの玉砕島からの生還者として厳重な監視の下で取り調べが行なわれたが、脱出が玉砕電以降であることが判明したため、敵前逃亡の疑いだけは晴れることになったと言う。また、彼らの証言によって玉砕後のグァム島の詳細が明らかにされたのであるが、その後の彼らの処遇は不明のままである。

参考文献 光人社出版 佐藤和正著 「艦長たちの太平洋戦争」

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