主家の大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友氏を支え、主家と共倒れしなかった立花道雪の名言と孤軍奮闘ぶりを語る。
「我が家来、またその従者たちを見よ。功名を度重ねないものはいない。他家にて「弱い」とそしられた士があれば、我が家に来て仕えよ。第一級の士に育てあげてみせよう」
「運不運は戦場の常。汝が剛の者であることは我が一番よく知っている。明日の戦では「汚名返上」とばかりに抜け駆けし、討ち死にしてはならぬ。それは不忠じゃ。命をながらえ、この道雪を守り続けよ」
「人の上位に立ち、人望を得る者は些細なことで厳罰を下したりはしない。それは人が背くもとだ」
「いま私の部下が失礼をしたが、この者は戦場では何人分もの働きをする。とくに槍の扱いなどは当家一であろう。」(部下が酒の席で失敗したとき、客に謝りながら語った言葉。部下思いの道雪の人となりを表すエピソード)
「本来、弱い士卒という者はいない。もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく大将が励まさないことに罪がある」
道雪は部下を育てるのが上手いと言われた武将。
武功のない部下には期待し信頼していることを伝え、武功をあげた部下には小さいことでも大いに喜び褒めました。大友宗麟の軍師で知られる道雪、普通は軍師といえば、右腕や知恵袋の役割を担うことが主な仕事ですが、道雪は大友宗麟やその子の大友義統にほとんど顔を合わせることが少ない軍師でした。
書状や使者で大友父子とコミュニケーションをとっていたようです。それでも大友氏における道雪の存在価値は高いもので、軍師あるいは参謀として活躍した人物であることは間違いようです。
大友軍が島津軍に大敗した耳川の戦いは宗麟と道雪主従の運命を大きく変え、それまで大友氏は九州全土を併呑する勢いがあったが、宿敵島津に決着をつけるため日向に遠征して完膚なきまで叩きのめされた耳川の戦い、以降は大友氏は衰退の一途をたどることになりました。
道雪は北九州の筑前立花城で秋月氏や宗像氏を相手に奮闘、本国豊後の主家の大友氏からの援軍をあてにすることなく孤軍奮闘したのです。そして、その戦いぶりは娘婿の立花宗茂へと受け継がれ、独立大名にのしあげたのは道雪の教えがあったからと思います。
※一部の画像はイメージです。
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