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多田銀銅山の埋蔵金伝説

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多田銀銅山には、「豊臣秀吉の埋蔵金が眠っている」という伝説があるのをご存じですか?
その事について考察していきたいと思います。

目次

多田銀銅山とは?

多田銀銅山は、現在の大阪府池田市と兵庫県川西市、猪名川(いながわ)町にまたがった場所にあり、けっこう古い歴史を持つ鉱山でした。
天平時代から銅山だったとか、平安時代に開発されたと言われますが、記録に残るのは鎌倉時代からだそうです。

そして天正時代に銅以外に銀も産出されるようになったため、あの豊臣秀吉の直轄領になったのですね。
とはいえ、近隣にある生野銀山が多田銀山の産出量の10倍以上もあったので江戸幕府は天領とはせず、その後の江戸時代には銅の算出が急増したが、次第に産出量が減少し、1973年に閉山したのです。

兵庫県 多田銀銅山史跡

兵庫県 多田銀銅山史跡

多田銀銅山の埋蔵金

で、この多田銀銅山には、「豊臣秀吉の埋蔵金が眠っている」という伝説があるのです。
秀吉が亡くなる直前、大坂城の金蔵にあった4億5千万両(今の価値で約200兆円)を多田銀山に隠したということです。

正直言って、億という単位が20世紀以前に使われることはなかったんじゃないかい、びっくりな額です。
この話は、太平洋戦争後、新聞記事になってその頃貧しかった日本は大騒ぎになったそう。

当時の新聞には、金奉行の幡野三郎光照が秀吉の命令で坑道の奥に隠し、子孫に書き残した文書が見つかったと載っているので、多くの人がトレジャーハンティングに乗り出しました。
しかし多田銀山には無数に坑道が存在しているうえに、すでに埋まっていたり水没していたりで発掘は難航を極め、他の多くの埋蔵金伝説と同じく、埋蔵金はいまだに発見されていないということです。

埋蔵金はない?

また幡野三郎が残した謎の文書ですが、1960年代にそれらしい巻物などを見た研究者は「大坂城の金蔵には4億5千万両があり、これ以上は必要ないので多田銀山の採鉱を中止して、鉱脈の場所などを将来に残すべし」という内容だったが、これが正しく読まれずに誤解されて埋蔵金伝説になったのではと述懐しているそう。

たしかに関ヶ原合戦後、徳川家康も大坂城の金蔵の莫大な太閤遺金を減らさせようと、淀殿に秀吉の霊を弔うために全国の神社仏閣の修復をなされよと煽りに煽って資金を出させたあげく、方広寺の「国家安康」の鐘にいちゃもんをつけて大坂冬の陣を起こしましたからね。

しかし真田信?(幸村)ら多くの浪人たちを雇ったのにも関わらず、大坂夏の陣で大坂城が落城後、焼け跡から金が約28万両、銀が約24万両も発見されているほど、豊臣家にはまだわんさかと金が有り余っていたのです。それで、この多田銀山の埋蔵金は21か所に分けてあり、そのうちの2か所が掘り出されということなんですね。

1か所は関ヶ原合戦の前で西軍の軍資金となり、そしてもう1か所はなんと大坂夏の陣で大坂城が落城した後、薩摩の島津家に届けるために穴山小助がやって来て掘り出したということなんです。
ということで、豊臣家滅亡後、なんで島津家に届けることになったか、次の国松生存説に続きますね。

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※画像はイメージです。

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