開発が十分ではなかった坂東の地において、村岡五郎(平良文)が坂東八平氏の祖となりえた背景を個人的な見解ですが分析してみました。
村岡五郎とその子孫が
村岡五郎とその子孫が坂東の地に勢力を拡大してゆく状況は、短期戦ではなく長期戦であると思います。
平将門と関係が深かったといわれていますが、平将門の活躍の舞台は主として戦場における短期戦でした。もちろん、平将門も長期的な戦略を有しており、戦いが100%であったわけではないと思います。
ただ、平良文は長期的な戦略に重点をおいており、いつのまにか勢力を増していった感じがあります。平良文と平将門の対比の図は、後の源頼朝と源義経の対比の図と似ていいるところがあると思います。
すなわち、源頼朝は政治的に長期の戦略を立案して平氏本家の勢力を時間をかけと弱めてゆきました。それに対し戦いに優れたセンスを有していた源義経は、短期ではめざましい戦果をあげましたが、長期戦略において源頼朝に及ばず、結局、兄頼朝の思いを推測できず、頼朝に滅ばされてしまいました。
この対比から一つのヒント
この対比から一つのヒントが得られます。頼朝のお母さんは藤原季範の娘さんで、長期戦に強い藤原氏の血筋が入っています。また、平良文のお母さんは藤原範世の娘さんで、やはり、長期戦に強い藤原氏の血筋が入っています。親兄弟の屍を踏み越えて戦うといわれた激しい闘争心と長期戦略をしっかりと立てて一千数百年にわたって日本の政治の中心を握っていた藤原氏の血筋が組み合わさって、坂東の地に強大な坂東平氏を樹立することに成功したのではないかと思われます。
長期戦の例としては、ムカデ退治で有名な藤原秀郷の子孫が、奥州平泉の地に三代にわたって栄華を築いたことにも気がつきます。平良文がどのような長期戦略を立てて実行していったかは具体的には分かりませんが、何となく頭に浮かんだ次第です。結局、短期の激しい合戦を行うとともに、京の都の公家勢力に対する戦略をよくよく考えて時間をかけて実行してゆくことで、坂東の地に大きな勢力を打ち立てたのではないかと思います。
戦略を立案する参考
この短期戦と長期戦略の組み合わせは、後の戦国時代の勢力の流れや、明治維新の後、欧米勢力とどのようにして対峙してゆけばよいか、戦略を立案するうえで大変参考になると思います。
足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将達も、これらのことを熟慮して、勢力拡大のために参考にしたのではないかと思います。明治政府の重臣達は、どのように参考にしたのでしょうか? 大変興味をひかれるところですが、皆様はどのように思われましょうか? 愚直な意見を記しましたが、いかがでしょうか?
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