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学者にしておくのが惜しかった「高野長英」

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江戸時代の蘭学者を調べていて、おもしろい人がいたのでご紹介しますね。

目次

高野長英とは

高野長英(たかの ちょうえい1804~1850)は、江戸後期の文化元年に仙台藩の一門の水沢伊達家の家臣の家に生まれました。

3男だったので高野家に養子に出されたのですが、養父は江戸であの蘭学医の杉田玄白からオランダ医学を学んだため、家に蘭書が多くて子供の頃から関心を持ったそうです。そして養父の反対を押し切って16歳で江戸へ出て、杉田玄白の養子らに師事し、その後は長崎でシーボルトの鳴滝塾の塾頭となったのです。

文政11年(1828年)、一時帰国しようとしたシーボルトの荷物を載せた船が座礁して、ご禁制の日本地図や葵の門の着いた羽織などが発見されるというシーボルト事件が勃発し、シーボルトは国外退去となりました。もちろん主だった弟子たちも厳しい詮議を受けて投獄されたのですが、長英はなぜか巧みに逃げたそう。

この頃、長英は全然帰ってこないので養父に絶縁されて侍の身分も失ったのですが、天保元年(1830年)に江戸で町医者として開業して蘭学塾も開きました。そして三河田原藩の重役だった渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として蘭学書の翻訳に取り組んだのです。

蘭学医というのは、医学部で勉強して国家試験を受けて合格後に医者となる現代と違い、オランダ語を会得して手に入れた医学書を読んで得た知識で患者さんを診るものだった。オランダ語の本が読めるという事は他の本を翻訳してもらおうか、という感じで藩に雇われて色々な本を翻訳させられたんです。
長英は、日本初ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフという西洋哲学史を要約したらしいです。

捕らえられた長英

幕府のアメリカ商船モリソン号打ち払いを批判した長英の書が出回って、天保10年(1839年)に「蛮社の獄」が起こり、幕政批判の罪で捕らえられたんですね。「永牢」という終身刑を受けて、小伝馬町牢屋敷の百姓牢に入れられたんですが、ここでなんと服役者の医療を行い、牢内環境の改善なども訴えたために、「牢名主」になったそうです。

もちろん牢の外では、学者仲間が長英を釈放せよと運動していましたが、却下され続けていたこともあってか、長英は弘化元年(1844年)6月に、牢で働いていた非人に放火させて「切り放ち」という家事や災害特有の囚人一時釈放(期日までに帰って来たら減刑)で脱獄、逃亡したのです。

逃亡生活ははっきりわかってないですが、埼玉の門人、江戸の学者仲間、それに鳴滝塾時代の同僚二宮敬作のつてで、伊予宇和島藩主伊達宗城のもとで蘭学書の翻訳や洋式兵備などを手伝い、塾も開いて後進の指導もしていたそうです。
しかし幕府に察知されたということで、伊達宗城にお金をもらって鹿児島に逃亡後、江戸に舞い戻り偽名を使って町医者を開業。妻子と住んでいたのですが、嘉永3年(1850年)10月夜に、南町奉行配下の同心や捕方らに踏み込まれて捕縛され、何十人もの捕り方に十手で殴打されて駕籠で護送する最中に46歳で絶命したのでした。

活躍してほしかった人物

長英は、ものすごい優秀な学者だったということなんです。小伝馬町牢屋敷では、牢内は服役者の自治に任されて牢名主とその手下が牛耳っていてた。新入りは牢名主らに賄賂をつかまさないと生きていけないとか、気に入らないやつは殺されても「病死」で片づけられるおそろしいところだったのに、理屈の通らない奴の上に立つ牢名主になったのはすごい。
おまけに脱獄までするなんて無茶苦茶興味深い人だと思いました。

他のエピソードを見ると、オランダ語に秀出てはいても鼻にかけたり、女好きだとか人に好かれない人だったみたいです。
なんで江戸へ帰って来たのでしょう、宇和島か長崎にいればよかったのに。そして後2~30年長生きして幕末、明治に活躍してほしかったなあと残念です。

featured image:椿椿山, Public domain, via Wikimedia Commons

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