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バーサーカー?源為朝の真実

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最近、源為朝が超人のような扱いで取り上げられる動画がいくつもあるのを発見しました。
まあ、動画は再生回数が多いもののタイトルと内容に右に習えで作られる傾向がありますがね。
それにしても源為朝の活躍はすごいです。

目次

源為朝とは

13歳で乱暴がひど過ぎて父の為義に勘当されて九州に追放されるが、3年で九州を平定した。
父が解任され、京都に帰った為朝は2mを超す大男に成長。5人がひいてやっとの弓を軽々と使いこなして保元の乱で活躍したが、兄義朝には弓を命中させない心優しい男だったとか。
九州で戦慣れしているので夜襲を提案したのに、藤原頼長に却下されたとかの話もあるほどです。

そして保元の乱で敗北後、逃走したが捕まり、父為義や兄弟たちが処刑されたのにもかかわらず、為朝は弓が引けないように肘を外されて伊豆へ流刑。
伊豆へ流された為朝は、なぜか腕は治って弓がつかえるようになり、10年後には、鬼の子孫で大男ばかりが住む鬼ヶ島に渡って島を蘆島と名づけたとかいう伝説までできて、為朝は伊豆七島を支配しちゃったのです。

しかし嘉応2年(1170年)にこの地方の代官の工藤茂光が上洛して為朝の乱暴狼藉を訴えたので討伐軍がやってきました。為朝は抵抗しても無駄だと9歳の我が子を刺し殺し、自害の前に一矢報いたいと約300人が乗る軍船に強弓を射かけると見事に命中して船は沈没しちゃったという最後っ屁まであります。
為朝は自害したんですが、追討軍は生きているのではないかと怖がってなかなか上陸しなかったほどで、為朝が死んでいるのを確認してからやっと薙刀で為朝の首をはねたほどでした。

そして伝説へ

為朝伝説は九州や伊豆各地に残っていて、佐賀県の黒髪山で角が7本ある大蛇を退治したとか、伊豆大島から為朝が放った矢が海を超えて鎌倉の材木座海岸まで届き、その矢が刺さったところから水が湧いて出来た井戸が鎌倉市材木座と逗子市小坪の境に現存する、鎌倉十井のひとつ「六角ノ井」だそうです。

しかしですね、これらの話は全部「保元物語」という、琵琶法師が語ったものが元とされる鎌倉時代に成立したらしいお話集の中にある話で、史実ではないんですよね、常識で考えても誇張でしょう。

もはや伝説になっちゃった、史実と確認できないことをさも本当みたいに動画で2ch用語とか使って面白おかしく語られると、マジかよ、あり得ねじゃね?と言いたくなった次第です。
とはいえ、為朝関連で調べると、由緒ある清和源氏の嫡流とされた為朝の父為義とその部下たちが、検非違使でありながら腐敗警察みたいに泥棒をかばったり、強盗やってたことを発見。
西海の海賊追討に派遣しようと候補に挙がったところ、鳥羽上皇に「為義を派遣すれば、途中で略奪強盗して国が滅びかねない」と言われたほどだったそうです。
これは為朝伝説と違い、史料に残っている史実なんですよね。
こっちのほうがすごい、何が由緒ある清和源氏や最悪やんかとイメージも吹っ飛んでしまいましたです。

歴史動画はおもしろいですが、ちょっと史実とはかけ離れている物が多くて心配になりました。

featured image:Kuniyoshi Utagawa, 歌川国芳, CC0, via Wikimedia Commons

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