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天平文化に足跡を残した国中公麻呂

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天平の時代、前代未聞の巨大な鋳造大仏の造立に成功し、庶民から皇室までを含む日本の人々の夢をかなえた国中公麻呂を紹介します。

目次

国中公麻呂とは?

国中公麻呂は奈良時代の仏師である。西暦663年(天智天皇2年)の白村江の戦いにおいて、唐と新羅の連合軍に百済と日本の連合軍が破れ、百済が滅亡した。国中公麻呂は百済の高官であったが、日本に亡命した徳率国骨富(トクソツコクコップ)の孫にあたる。「徳卒」は百済におけるかなり高い位の名称である。のちに大和国葛城下郡国中村に移住して、国中の姓を冠した。

大和国は、大和朝廷を支える豪族が多く、古墳が盛んに造られた時代には、大王(おおきみ)やそれら豪族のために馬具を製作する鞍作氏のような職人の本拠地であった。馬具の製作と仏像の製作との間には共通点があり、そのため、鞍作氏は飛鳥時代に主として仏像の製作に携わったのではないかといわれている。

国骨富一族が定住した大和国葛城下郡は、大和盆地と河内平野の間の行き来のための要所に位置し、寺院が盛んに建立され仏像製作需要が多かったであろう両地域の間の交通上の要所でもあり、そのため国骨富一族の定住の場所として選ばれたのであろうか。

天智天皇を頂点とした大和朝廷は、亡命してきた百済官僚の処遇として、優れた技術に詳しい者に冠位を授与した。
百済において徳卒の位を有していた国骨富は、仏像製作技術に関係していた官僚であったのかもしれない。国骨富は、子孫が日本において安定した地位を取得して不安定な亡命者の境遇を解消するために、仏像製作技術取得に励むように子孫に言い残し、かつ指導もしたのかもしれない。そうであれば、国骨富のこの判断は適切なものであったのであろう。

東大寺盧舎那仏像

聖武天皇在位時(西暦724年~西暦749年)、災害や天然痘が多発して人々が苦しみ、政府高官も多くが病死する事態となったとき、仏教に深く帰依していた聖武天皇は、西暦743年(天平15年)東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出した。
光明皇后もその事業を強く推した。動植物を含めた全ての命を尊重すべきだというのが、仏教より得た聖武天皇の信念であった。その後、西暦749年には娘の阿倍内親王に譲位し、阿倍内親王は孝謙天皇となる。
盧舎那仏像の造立の詔により造東大寺司が設けられ、そこの造仏長官であり難事業であった大仏建立に中心的役割を果たしたのが国中公麻呂である。

この時代、渡来人系の人々が役人に登用されることは少なかったので、国中公麻呂の技量のすばらしさが推し量れられる。大仏の鋳造は西暦747年(天平19年)に開始され西暦752年(天平勝宝4年)に完了して、鍍金(金メッキ)を開始するに至った。大仏と大仏殿造立に携わった人夫さんの数は延べ約260万人であり、大仏造立に使用した銅の量は試作実験も含めて499トンといわれている。光明皇后も素足で藁土を踏んで作業に参加されたとのことです。大事業であった。

そして、この年に1万人もの人々が見守る中、帰化したインド僧菩提僊那によって開眼供養が行われた。まさに天平文化の国際性を示している。国中公麻呂は、大仏建立の成功を賞され、西暦767年には従四位下の高位を賜り、西暦774年に静かに逝去した。

鋳造した大仏

国中公麻呂が鋳造した大仏は、仏像の高さが約17.8mと伝えられ、このような高さにチャレンジしようとする仏師は国中公麻呂以外に現れなかったという。従来の型鋳造でこのように巨大な仏像を造ろうとすると、注入された莫大な量の溶解銅の重さに外型(そとがた)が耐えられず、また仏像の重量も巨大になってクレーンのない時代に運搬や設置作業を行うことも困難になる。

国中公麻呂の考案した鋳造方法は、型鋳造とは異なり、仏像の外型(そとがた)を造った後、仏像の原型を削って中型(なかがた)とし、中型と外型を合わせて両者の隙間に銅を流し込むという手順をとり、かつ仏像の底から仏像の頂部までを8回に分けて鋳継いだということである。このようにすれば、注入する溶解銅の重量が激減するので前述の不具合の発生を防ぐことができる。国中公麻呂の造った大仏はその後、歴史上2回の火災で大きな修復の手が入っている。

国中公麻呂の指導により造られた三月堂の本尊不空羂索観音像は気迫に満ちており、また東大寺大仏は静かさと重厚さと威厳に満ちていて、祖父の国骨富が伝えた伝統に唐の様式を取り入れたものだといわれている。

安らかに一生を終えたことであろう

祖国百済の滅亡は無念であったのであろうが、亡命先の日本で、誇りを胸に秘め、知恵を絞り、覚悟を決めて命をかけ、庶民から聖武太上天皇および光明皇太后までが感激して開眼供養を祝えるように、今まで誰も見たことがない巨大な鋳造大仏を造ることに成功し、自身や祖先達の人生に納得して安らかに一生を終えたことであろう。

日本国民全体の協力も大きく、聖武太上天皇はそれを多とされた。このような雰囲気は、困難な技術開発に取り組む国中公麻呂の心を穏やかに支えたに違いない。

※画像はイメージです。

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