終戦直後、東京湾上空で行われた太平洋戦争最後の空中戦とは?
ポツダム宣言受諾後の昭和20年8月18日、関東地方に1機のアメリカ軍の爆撃機が侵入し、自衛のため戦闘態勢を解いていなかった海軍横須賀航空隊の戦闘機の迎撃を受けている。
この日は快晴で、午後1時ごろに「敵大型機千葉上空を南下中」という報告で空を見上げた時には、高空を飛行雲を引いて飛ぶ大型機が目視できたという。
この時すでに停戦命令が出ていたが、精強揃いの横空の搭乗員は何のためらいもなく乗機に駆け寄り我先に離陸、零戦14機と雷電(紫電改?)3機が編隊も組まずに敵機を追った。
だが各々バラバラに敵機を追ったため、出撃した機の全部が敵機を発見したわけではなく、東京湾の出口付近で敵機を捕捉したのはほんの数機であった。
出撃したのは分隊長の国分道明大尉、坂井三郎少尉、小町定飛曹長などであったが、小町定飛曹長は雷電で敵機の直上方から20ミリ機関砲の斉射を加えて煙を吹かせたと言う。また、零戦に乗った国分大尉は大島近辺まで追いながら後方から銃撃を加えたが、敵機の足が速く有効弾を得られなかった。坂井少尉の零戦もしぶとく敵機に付きまとっていたが、ついにとどめを刺すまでには至らず、結局撃墜はならなかった。
しかし帰還してから、あれはどうもB29じゃないぞと言う事になり、米国機識別図を引っ張り出していろいろ見てみると、性能も要目も全く不明のコンソリデーテットB32「ドミネーター」ではないかと言う結論になった。
B32「ドミネーター」はB29の運用が失敗した時に備えて計画され、1944年9月に量産機第一号機が完成した。ところがB29が問題なく実戦配備され戦力となったために115機で量産終了。結局ほとんど戦力とならなかったのであるが、一部が1945年7月に第386爆撃飛行隊に配備され沖縄に進出していたのである。全長は25.3mとB29よりは5メートルほど短く小ぶりではあるが、爆弾搭載量は約9トン、エンジンはB29と同じものを搭載。最高速度も時速575キロとB29とほぼ同じ性能であった。
米軍側の記録では、沖縄の読谷飛行場に進出していたB32は8月17日と18日に降伏後の日本の状況を偵察するために関東上空に飛来、この両日とも日本軍の迎撃を受けたとされている。そして17日の出撃では搭乗員2名が負傷し、18日には1名が戦死となっている。ただしB32は両日とも無事に沖縄の基地まで辿りついている。
18日の東京湾上空での小町定飛曹長の雷電の一撃は、皮肉にもアメリカ軍の第二次大戦最後の戦死者をもたらしたわけである。この不運な戦死者はアントン・マルチオン軍曹(撮影手兼射撃手)で、上部銃座で応戦中だったと思われる。
なお、この日迎撃に飛び上がった日本軍機は、零銭14機と紫電改3機という資料があるが、実際にこの迎撃に加わった人の回想からは紫電改ではなく雷電が3機ではないかと思われる。
また、B32は8月17日にも日本に飛来して迎撃を受け、負傷者が2名出たとされているが、何処でどの隊が迎撃したかについては日本側の記録が見当たらない。
B32は欧州戦線には間に合わず太平洋戦争の最後の少しだけ参加したわけだが、全く戦果を挙げずに逆に死傷者だけを出した稀に見る珍しい機種とも言える。
参考文献 秦郁彦 著「8月15日の空」
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