大学に入ったばかりの頃の話。
私の大学は敷地がとても広く、入学したての頃はいつも迷子になっていた。
敷地の端から端まで歩けば軽く1時間近くはかかるほどで、迷子になれば遅刻確定だ。
トイレを探して
その日は、実習先の農場に向かうため、大学の端にある講義棟から雨の中を歩いていた。
出発してから十数分、便意を感じ始める。
トイレを探そうとしたが、どこの建物も鍵がかかっていたり、清掃中だったりと、どこも入れそうになかった。
農場に行けば近くに簡易トイレはあるものの、それまで持ちそうにない。
焦れば焦るほど危機を強烈に感じてしまう。雨で体は冷え、何故か眩暈までしはじめた。
不意に、ぎい、と音がして、音の出所を探した。少し離れたところでドアが開け放たれている。
ベニヤ板を貼り付けたようなちゃちな外壁に対して、窓の目張りは厳重でドアの向こうも暗く中は見えない。
見覚えのない建物だ、と思った。
ドアは、ぎい、と音をきしませながら、開けられたばかりのように、わずかに揺れている。
(誰かいるんだろう。トイレを貸してもらおう。)
「すみません!トイレ、かります!」
それだけ言うと、私は未舗装の地面を駆け、建物に飛び込んだ。
トイレを借りる
入って右手にすぐトイレがあり、トイレのドアも同じように軋みながらゆれていた。
土足で入って良いようで、濡れた靴を軽くマットに擦りつけて突き進む。
開け放たれたドアの向こうには個室が二つあるだけだった。
「和式」と書かれた個室は誰かが入っていたものの、もう一つの洋式便座のある個室は空いており、すぐさま腰を下ろす。
扉を閉める瞬間、私の靴跡が泥塗れなのが見えた。
「ああ、床汚しちゃったな、掃除して帰ろう」
反省しながら、一息つき、用を足して出ようとしたその時だった。
となりの個室との仕切りの、薄く浮いたその隙間から、ドロドロした何かがわずかに流れ込んできた。
「泥?まさか下痢便じゃないよな?」と疑ったそれは、トイレの照明に照らされてぬらぬらと鮮やかな赤色をしていた。
血液か?タイルに沿ってすうっと足元に流れてくる。
血だ!
なんですか!
「何ですかこの・・・ドロドロって流れてきたんですが!大丈夫ですか!?」
扉を叩きながら、声をかけた。向こうで倒れているかもしれない。
下痢か血便かわからないが、異常なことはわかる。
返事はなく、一層激しく仕切りを叩く。
照明がふっと暗くなって、顔を上げる。
そこには、こちらを覗き込む髪の長い人影があった。
光のない瞳。
子供の落書きのような、のっぺりした凹凸のない顔。
それが上半分を覗かせて、無言でこちらを見ている。
思わず、走り出す。
私の付けた泥の靴跡は、毛束を引きずったような模様の赤い痕で上書きされていた。
振り返れば、隣の個室の扉は開け放たれており、人の気配はしなかった。
建物を出るとき、何か生温い物が脇腹をかすめたが、それが何かはわからない。
その後の話
友達にこの話を教えると、彼は話を聞いてその建物の様子を見に行ったようだ。
「入れないじゃん」
と見せてくれた写真には、見覚えのないかんぬきとトイレの真上にある窓の厳重な目張り。
その隙間からこちらを覗く、光のない、黒く大きすぎる眼が映っていた。
※画像はイメージです。
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