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妖怪からヒトコワまで知れば知るほど奥が深い柳田國男「遠野物語」

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あなたは『遠野物語』をご存知ですか?日本を代表する民俗学者・柳田國男が明治時代に出版した本書は、妖怪や幽霊が起こす怪異憚にとどまらず、人間の心の闇を描いた不朽の名作として語り継がれています。
今回はけっして色褪せることない、『遠野物語』の魅力を深掘りしていきたいと思います。

目次

『遠野物語』の作者・柳田國男とは?

まずは作者のプロフィールから。柳田國男は1875年(明治8年)、兵庫県に生まれました。父親は儒者兼医者の松岡操、母はたけ。8人兄弟の6男として誕生し、幼い頃から大量の書物に慣れ親しむ生活を送っていました。

当時から非凡な記憶力を誇り、11歳の時には下宿先の三木家の膨大な蔵書を読破しています。
のちに『遠野物語』を執筆する柳田が幼少期の忘れ難い体験として語っているのは、近所の寺・徳満寺で間引き絵馬を見たこと。
これは母親が産まれて間もない我が子を殺す場面を描いた絵馬で、大飢饉の折に蔓延した間引きの戒めとして、各地の寺社に奉納されていたといいます。
神隠しに遭いかけたこと、白昼の空に星を目撃して気を失ったこと、狐に化かされたこともあったそうで、子供の頃から不思議なエピソードに事欠きませんでした。

その後は東京帝国大学で農政学を修め、農商務省の高等官僚となり、講演旅行で地方を回るうちに、スピリチュアルな現象やアミニズムに傾倒していきます。
当時の日本には怪談ブームが到来していました。その中心人物が耽美な作風で知られる幻想文学の書き手・泉鏡花。
鏡花は知己の文豪や門下生を集め、たびたび百物語の会を催しており、これに触発された若手が怪談を書き綴ります。柳田も例にもれず、新進作家の佐々木喜善から聞いた故郷の話に材をとり、『遠野物語』を執筆したのです。

『遠野物語』の舞台は岩手県・遠野市

『遠野物語』の舞台は言わずと知れた岩手県遠野市。正確には遠野・松崎・綾織・土淵・附馬牛・上郷を指し、上閉伊郡宮守村・釜石市橋野町・上閉伊郡大槌町・下閉伊郡川井村を含む場合もあります。
遠野地方の説話集として出版された本書には、天狗・河童・雪女・狐狸・座敷童子ほか、山人・山姥・マヨヒガ・神隠しなどの事例が多数記され、日本の民俗学研究の先駆けとなりました。

一口に岩手県といっても右は沿岸地帯、左は山岳地帯に分かれ、その中間に森林や平原、盆地を擁しているのに注目してください。
故に漁師の体験談からマタギの体験談まで収集した奇譚はバリエーションに富み、一冊で海・山・村落の怪異を網羅しているのです。

伝統の姥捨ての地、デンデラ野

『遠野物語』に収録されているのは奇想天外な妖怪の話だけではありません。
皆さんは姥捨て山の伝承をご存知ですか?昔の農村は貧しく、年老いて働けなくなった者は、子におぶわれて山に捨てられる習わしがありました。
遠野地方において、そこは「デンデラ野」と呼ばれていました。

このデンデラ野はダンノハラと呼ばれる土地に隣接し、複数散在していたそうです。
デンデラは本来墓場や火葬場の異称ですが、遠野ではダンノハナがこれに当たり、デンデラ野には別の意味と役割が付与されました。

遠野在来の農村の男女は還暦になるとデンデラ野に移住し、高齢者のみで共同生活を送ります。
昼は畑に下りて農作業を手伝い、夕方には少しの食料を貰って帰って行くのが、デンデラ野で余生を過ごす彼等の日常でした。人里離れた山に置き去りにするならいざ知らず、田畑に隣接した平原ならば、足腰の弱った老人でも往復は可能です。人骨山や死人谷、爺転ばしや婆転ばしなど身も蓋もない名前で呼ばれる遠野以南の姥捨ての地に比べれば、幾分良心的なシステムかもしれません。

デンデラ野は漢字で蓮台野と書き、これは仏教における釈迦の在所、蓮のうてなに通じます。
姥捨ての忌み地に有難い名前をあてたのは、貧しさ故に老親を捨てざる得なかった百姓たちの、罪悪感の表れだったんでしょうか?

刻んで埋められた河童の子の正体

『遠野物語』読者に人気の観光スポット、カッパ淵。往時は沢山の河童が住み、馬を川に引きずり込んだり村人たちと相撲をとったと言われています。
なおカッパ淵は遠野に14か所存在し、どれもが涼しげなせせらぎでもって訪れた人の心を癒してくれます。

土淵町常堅寺裏のカッパ淵にはカッパ神を祀った小さな祠があり、産後の肥立ちが悪い女性が願掛けすると、母乳が出やすくなると信じられていました。
さて、『遠野物語』にも河童が登場するエピソードが数多く収録されています。
通りがかりの村人に悪戯する話は勿論のこと、とりわけ印象に残るのが河童の子を孕んだ娘の話。

『遠野物語』にて娘が産み落とした河童の子は、刻まれて埋められるか川に流される運命を辿ります。
赤子の正体は口減らしに間引かれた水子とする説が有力。さらに嫌な想像をすれば、世間体を憚る私生児や未熟児、障害児だったのではないでしょうか。たとえば合指症の新生児の手を水かきと間違え、河童を連想したとしたら……。
「河童の落とし子」は間引きを正当化する口実だったのかもしれません。

嫁姑の諍いのはてに……実母を手にかけた孫四郎の狂気

某集落に母一人子一人で暮らす孫四郎が念願の嫁を娶りました。しかし同居の母親による嫁いびりが酷く、哀れな女房はどんどん衰弱し、ことあるごとに里帰りした末寝込んでしまいます。
母と嫁の板挟みに陥った孫四郎の精神も次第に荒廃し、ある時「ガガ(お袋)はとても生かしておけぬ。今日はきっと殺すべし」とうわ言を述べ、草刈り鎌を研ぎ出しました。

突然の奇行に慄いた女たちが泣いて縋れど聞く耳持たず、一心不乱に鎌を研ぐ傍らで、「嫁をいじめて悪かった、もうしないから許してくれ」と命乞いする母親を監禁。
逃亡を警戒して表戸と裏口を鎖し、用足しに行くのも禁じ、いよいよ殺人計画を決行に移します。
数刻後……。

断末魔と同時になだれこんだ村人たちが見たのは、血まみれの鎌を振り上げ無差別に襲いかかる孫四郎の狂態と、「私は誰も恨んでない、倅を許してくれ」と懇願して事切れた母親の姿でした。

「狂人なりとて放免せられて家に帰り 今も生きて里に在り」。

刑法39条の成立は平成15年。孫四郎の犯行時には施行されてませんが、当時から既に心神喪失者の行為は罰さず、刑を軽くする風潮が存在したのです。

従来の尊属殺人には死刑相当の厳罰が課されたので、駐在の裁量を加味するにしても、随分恩情ある措置に映ります。
孫四郎の親殺しは『遠野物語』随一の血なまぐさい惨劇、酸鼻を極めたサイコホラーとして知られ、所詮昔話だと油断しきっていた読者に、猟奇殺人のルポルタージュを読んだかのような衝撃をもたらしました。

座敷童子はどこへ行った?

最後に紹介するのは遠野の豪農・山口孫左衛門の話。
ある村人が橋の袂で二人組の童女と行き会い、どこから来たのか尋ねた所、「孫左衛門の家。これから別の家に行く」と答えました。
それから数日後、孫左衛門の一族は毒きのこに当たり、幼い娘1人を遺して全滅の憂き目に遭います。
二人組の童女の正体は座敷童子というのが通説ですが、実際はもっと複雑。

注目してほしいのは孫左衛門の日頃の行い。
彼が住む集落はもともと薬師如来を信仰していたにもかかわらず、孫左衛門はわざわざ京都に行ってお稲荷様を連れ帰り、薬師堂の反対に位置する山の頂に祀ったのです。
はたして「座敷童子に会った」村人の証言は信用できるのでしょうか?

迷信を隠れ蓑にした村の誰かが、孫左衛門が食べる収穫物に毒きのこを混入し、大量殺人を計画したのだとしたら……想像が膨らみますね。

著:柳田 國男, 翻訳:新谷 尚紀
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※画像はイメージです。

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