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城づくりで再評価された藤堂高虎

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N〇Kの大河ドラマも主役が出尽くして、こんな人が主役かと思う人物が描かれるようになりましたが、昔と違ってイメージ覆った人物も多いのです。
そのひとり、藤堂高虎をご紹介しますね。

昔は本を読み漁って、それでもなかなかわからないことが多かったけど、最近、ネット検索をすると、ピンポイントで知りたいことが出て来るうえに、それ以上のことがわかるので誰かに伝えたくなるほど詳しい知識が得られます。
また、昔はそうじゃなかったよね、という再評価された人も多くてこれもまた新鮮です。
へええと思って、N〇Kの歴史番組を見てみると、あらまあ歴史の先生方もおもろい、いや専門的なお話を実に興味深く教えてくださる、ちょっと歴史がいまさらマイブームになるほどおもしろいです。
そういうなかで、全国各地に残るお城、お城跡についても城郭考古学の専門家千田教授の解説を聞いていると、たしか昔は何度も主君を変えた点で評価の低かったはずの藤堂高虎が、築城の専門家として脚光を浴びているのです。
黒田官兵衛孝高、加藤清正と高虎は3大築城名人と言われているのですよ。

藤堂高虎は、近江出身の没落土豪で、はじめは浅井長政に足軽として仕えて姉川合戦では、長政直々に感状をもらったほどの武功をあげました。
しかし浅井長政が織田信長に滅ぼされた後、浅井氏の旧臣の家臣として転々としたあと、信長の甥に仕えたが長続きせず流浪生活で無銭飲食の話さえあるそう。
そしてその後は、信長の武将時代の羽柴秀吉の弟秀長に仕えたのがよかったのですね。

秀長のもとで武功をあげ、ついに1万石をゲット、次の高虎の転機は聚楽第に徳川家康の屋敷を建てるのを任されたときでした。
高虎は設計図の警備上の難点を見つけて独断と自費で設計を変更。
のちに家康に設計図と違うがと言われて、自分の一存で変更したことを話して、家康の信頼を得たのがそののちに役に立つことに。
高虎の主君秀長は早死にし、跡継ぎの秀保も亡くなった後、高虎は高野山で出家したのですが、秀吉が宇和島に7万石を与えて大名にしたのです。

秀吉亡き後は、家康に接近して関ヶ原でも東軍で戦い、戦功で四国今治20万石をゲットしました。
というわけで、高虎は宇和島城や今治城を築城し、層塔式天守の創始者といわれていて、なんと家康に乞われて江戸城の建築にも携わったのです。
高虎は家康に信頼されて、伊賀上野を含む津藩30万石の藩主となり、外様ながら譜代扱いという待遇になったそう。
高虎の築城技術は独特の石垣にあるそうで、ほかにも伊賀上野城、丹波亀山城なども築いたのですが、近江出身だし、石積みで有名な穴太衆(あのうしゅう)と関りがあったのではないでしょうか。
また、8度主君を変えたのは移り気なのではなくて、仕えた主君のほうに問題があったのだとか、藤堂藩が幕末の鳥羽伏見の戦いで真っ先に幕府軍から官軍に寝返ったことが印象を悪くして、藩祖高虎の悪評につながったという話まであるようでじつに興味深いです。

藤堂高虎、なんと190cmもあった大男で、若い頃の無銭飲食も食い逃げではなくて、餅屋の主人に謝罪したら、感心した店の主人に故郷への路銀も与えられたそう。
そして高虎は後年、大名となって参勤交代の途中、三河のこの餅屋に寄ってお金を返したという話が日本昔話のようで微笑ましいです。
ほかにも色々な人がいますが、藤堂高虎は再評価された人物の典型的な例ではないかと思いますです。

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