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「自分で飛び降りろ」自殺を偽装した集団リンチ~東尋坊殺人事件~

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2019年10月18日18時すぎ、ひとりの若者が東尋坊の断崖絶壁から眼下の暗闇にダイブした。
彼は自殺志願者だったわけではない。集団による暴力で心を殺され、支配され、極限まで追いつめられて、死を強要されたのだ。
ここから身を投げること。解放される手段は、それしか残されていなかった。

リンチの痕跡を消すために、自殺の名所を利用して罪を逃れようとした少年6人と成人ひとり。
死を選ばざるをえなかった若者の絶望は察するにあまりある。

目次

被害者・嶋田友輝

2019年10月19日早朝、福井県坂井市の名勝・東尋坊の海に若い男性の遺体が浮かんでいるのが発見された。
死亡したのは滋賀県東近江市の嶋田友輝さん(20)。滋賀県警の発表によると、直接的な死因は岩に頭を強く打ちつけたことによる脳挫滅。
「悲惨な状態になっとるから、見んといてね・・・・・・」
母親は息子の友人たちにそう告げて、悲しみに打ちひしがれていたという。

友輝さんが幼いころに両親は離婚した。母は生活保護や母子手当を受けながら息子たちを女手ひとつで育てあげた。
真面目な長男にヤンチャな次男。母子家庭で育ったのは2人とも同じだが、兄と弟で異なる育て方をしたとは考えにくいから、兄弟のキャラクターは持って生まれた性質だったと思われる。
ヤンチャな次男は高校に進学するも、2年で中退。以降は母親の影響か、介護の仕事や建設現場の仕事などに就いていたことがわかっている。

地元では顔が広かった20歳の若者。1万円程度なら借りても返さないようなルーズなところがある一方で、友だち思いの優しいやつだったとの証言もある。
「ワルとはつきあうなよ」と心配する友人には、「わかったよ」と返すのが常だった。しかし実際は、地元の不良グループのあいだで彼は知られた存在だった。
逮捕された少年らとは別のグループといさかいを起こして警察ざたになった過去もある。

事件の発端と暴行の経緯

少年A(19)と知り合ったのは9月中旬のことだった。
ほどなくして友輝さんはAの父方の家に身を寄せて、行動をともにするようになる。1か月後に自分を殺すことになる相手と、当初は意気投合したのはまちがいない。

そんなある日のこと、Aが外国人とトラブルになり、殴られるという事件が起きた。このとき、Aは友輝さんが助けてくれなかったことに深い恨みを抱く。
さらに10月7日、今度は友輝さんがコンビニで暴力団関係者と一悶着。一緒にいたAも巻き込まれ、2人してボコボコにシメられた。Aは密かに憎悪を募らせる。

翌日、2人は少年Bとその彼女Gとカラオケへ。BはAと言葉を交わしたことがある程度の間柄で、友輝さんとは初対面。
午後11時を回ったころ、Aは友輝さんにからみはじめ、「スパーリング」と称した暴行がスタートした。さらに、前日のトラブルにGも巻き込まれているとBに吹き込み、それを友輝さんのせいにした。このためBも激怒して「スパーリング」に加わる。暴行はその日だけで終わらず、友輝さんを監禁して場所を移しながら12日まで続いた。この間、A、Bに加えてC、D、E、Fと共犯者が増えている。

その後、Aが交際相手の女性にとがめられたこともあり、暴力行為はいったんはおさまった。
ところが16日の夜、ある出来事がAの残虐性に再び火をつけることになる。友輝さんは、トラブルを起こした暴力団関係者との電話でAの居場所をばらしてしまったのだ。逆上したAは、B、D、E、Fとともに集団リンチを再開する。

起訴状によると、少年ら7人による暴行は16日深夜から18日未明までの27時間以上にわたって断続的に行われたという。その内容は、友輝さんを手錠で拘束して無抵抗にしたうえで、顔の輪郭がわからなくなるまでバットで殴打する、ハンマーで歯を折る、電動ドライバーを口の中で作動させる、道路に寝かせて車で脚を轢く、塀の上から腹部に飛び降りるなど執拗なもの。友輝さんは骨折や全身打撲などの重傷を負っていた。

「最後は華やかですね」

いつ終わるとも知れない監禁&暴行地獄。
一筋の光明がさしたのは、17日の深夜だった。Aに呼び出されて暴行現場に居合わせた友人が、リンチの凄惨さを見かねて通報したのだ。このころには、友輝さんの顔はすでに原形を留めていなかった。日付が変わった18日未明に警察はやってきたが、このとき友輝さんは乗用車に監禁されていたため暴行は発覚せず。それどころか、善意の通報が最悪の結末を招いてしまう。

警察が動いたことで少年らはリンチの発覚を恐れ、友輝さんの口封じを考えるようになった。
けがが治るまでかくまうことを提案した者もいたが、Aは生かしておくことを拒否。論点は自然と殺害方法へ移行する。
どうやって殺すかは本人の前で話し合った。Aは一人ひとりが行った具体的な暴行内容を指摘し、裏切ることがないよう釘を刺すという狡猾さをみせている。

その後少年らは、重傷の友輝さんを乗用車のトランクに押し込んで東尋坊に連行。断崖絶壁の縁まで歩かせ、取り囲むようにして「おまえは死ぬ道しかない」「はよ落ちろや」と迫った。
執拗な暴行によって心が折れ、抗う気力もなくなっていた友輝さんは、言われるがままに崖の上から身を躍らせた。
「最後は華やかですね」とは現場にいた少年の1人が発した言葉である。

4時間後、犯行を終えて滋賀県に戻っていた7人は、捜査を続けていた滋賀県警の事情聴取を受けている。
翌19日早朝には友輝さんの遺体が発見され、少年6人と上田徳人は同日に監禁容疑であっけなく逮捕された。

注目された判決では、小年Aに懲役19年、逮捕時39歳だった上田徳人に懲役10年、その他5人の共犯少年に懲役5~15年(不定期刑)の実刑判決が確定。
2022年4月1日以降、特定少年(18歳と19歳)の実名報道は起訴後に可能となったが(略式起訴は除く)、本事件当時、犯行グループは上田徳人を除く全員が未成年だったため実名は公表されていない。

浮かびあがる疑点

ここまで事件のあらましを解説してきたが、残念ながら、信憑するに足る報道等から明らかになっている経緯はこの程度である。
警察が開示していない情報はもちろんあると思われるが、それを差し引いても全体像がみえにくいこときわまりない。

疑点(1) 不明瞭な動機

断片的な情報を組み立てると、犯行グループは知り合ってまもない即席の集団だったことがわかる。
少年Aを軸に相関図をイメージすると、友輝さんとは1か月、B、C、Fとはわずか10日ほどのつきあいで、後輩D、Eとの交流の深さは不明のまま。こうした浅い関係性の集団では、おそらくストッパーの役回りが生まれにくいのではないだろうか。

殺害動機が暴行の隠蔽工作だったことは疑いようがない。しかし制裁の動機として説明がつくのはAが抱いていた個人的な恨みのみ。ほかの加害者は友輝さんとほとんど交流はなく、恨みも憎しみも抱いていなかったはずなのだ。
公判では、全員がリーダー格のAに従属的な立場だったと判断された部分もあるが、人間関係が構築されていないからこそ競い合いの心理が生まれ、引くに引けなくなった可能性はあるだろう。むしろ人間は一度タガが外れてしまうと、つきあいの浅い相手のほうが残酷になれる生き物なのかもしれない。
恨みや憎しみとは関係なしに、ただ快楽のために他人を殺す人間もいるのだから、常識という天秤で量るだけでは真相はみえてこないような気がする。

疑点(2) ただひとりの成人 上田徳人

唯一の成人であり、メディアでただひとり名前が報じられたことから、当初は主犯格とみられていたの39歳のとび職・上田徳人。
しかし主犯は少年Aであったことがのちの裁判で判明した。この上田徳人という人物についてもよくわからない。

10代の少年グループのなかで唯一の「いい大人」。しかしリーダー格というわけではなく、少年たちの凶行を制止するどころか流れに乗ってしまった男。「穏やかな性格だから、なぜこんなことになったのかわからない」という勤務先の関係者の証言をみるかぎり、凶悪事件とも結びつかない。
「穏やかな性格」だったのは事実かもしれないが、少年グループとつるんでいたということは、年相応の精神年齢ではなかったのかもしれない。少なくとも力関係ではAに及ばなかったことがうかがえる。
一見すると、 39歳の男が10代の少年たちに命じて友輝さんに制裁を加えたという構図にみえるこの事件。万が一事件が発覚したときのことを考えて、Aが少年法の適用されない成人をスケープゴートとして引き入れたとしたら恐ろしい話だ。

疑点(3) 本当に自分で飛び降りたのか

もっとも釈然としないのは、友輝さんは本当に身を投げたのかということだ。
長時間にわたる壮絶な暴行で重傷を負い、車のトランクに押し込まれて連行された人間が、崖の突端まで進み出て、そこに立つことができたのか。
自力で立ち上がるどころか、動ける状態ですらなかったのではないだろうか。
友輝さんは自ら飛び降りたのか、突き落とされたのか、放り投げられたのか。
真相を知るのは7人のみである。

東尋坊に息づく悪僧の怨念

サスペンスドラマのクライマックスで、追いつめられた犯人が自分語りをはじめる東尋坊。
海に突き出た岩壁は「〇〇崎」「〇〇岬」と名づけられることが多いのだが、なぜ「〇〇坊」なのだろう。
そこには、人の恨みをかってここから突き落とされた僧侶の恐ろしい伝承があった。最後に東尋坊の地名の由来をご紹介しておこう。

その昔、僧兵を有して隆盛を誇った平泉寺(現在の福井県勝山市)という寺があった。
そのなかの東尋坊という僧は、怪力を頼りに民百姓に非道のかぎりをつくしていたので、僧侶たちは弱り果てていた。東尋坊が思いを寄せる美しい娘は美僧・覚念(かくねん)と相思相愛の仲。東尋坊にとって恋敵は憎々しい存在だった。
ある日の夕刻、覚念と娘は語らいながら手をつなぎ歩いていた。すると、どこからともなく石が矢のように飛んできて、娘はその場に倒れ、覚念の手を握ったまま息絶えた。いうまでもなく、恋に狂った東尋坊のしわざである。

寿永元年(1182)4月5日、僧侶たちは示し合わせて海見物に誘いだす。出かけたのは現在の東尋坊である。
岩壁の上で酒盛りがはじまると、覚念は東尋坊に酒や肴をしきりにすすめ、泥酔させて海へ突き落とした。すると、今まで晴れていた空が見る間に暗くなり、雷鳴や豪雨が襲い、覚念をも絶壁の底に吸い込んでしまった。

以来、東尋坊が突き落とされた日がくるたびに海は濁り、荒れ狂い、憤怒の形相が海面に現れるようになったという。
東光寺の長老たちが詩歌を波に沈めたことで、東尋坊の怨念は鎮まったと文献は伝えている。
何気なく暮らす日々のなかで、人の姿をしたモンスターと邂逅してしまい、命を落とす人間は確かにいる。
そのような事件が起きるたびに、これは自分だったかもしれないと思う。
この世に悪が栄えたためしはないらしいが、残念ながら滅びたという話もない。これからも凶悪犯罪は起こりつづけるだろう。

※画像はイメージです。

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