【青森県】日本中央の碑は本物?日本は「にほん」と「ひのもと(日の本)」に別れていた!

「青森県はかつて、日本の中心だった……」

そんなバカな、と思った方は多いでしょう。

しかし実際に青森県東北町では、「日本中央」と彫られた巨大な石碑(せきひ)が1949年に発掘されています。しかも800年以上も昔の時代から、「東北地方には『日本中央』と掘られた石碑がある」という伝承まで伝わっていたのです。

青森県で見つかった「日本中央の碑」は本物なのか?
なぜ青森県が日本の中央なのか?

そんな謎を解き明かしていくうちに、驚きの事実が明らかになりました。
なんと、日本はかつて「にほん(日本)」と「ひのもと(日の本)」という2つの国に別れていたのです!

目次

日本中央の碑とは?

今から70年以上前の1949年6月21日、青森県東北町の石文(いしぶみ)という場所で、高さ1.5mほどの巨大な石碑が発掘されました。しかもその石碑には、「日本中央」と掘られていたのです。

この石碑は「日本中央の碑(ひ・あるいは「いしぶみ」)」として市の有形文化財に指定されました。現在は町内の保存館で展示公開されています。

1949年に発見された日本中央の碑
■1949年に発見された日本中央の碑
ファイル:つぼのいしぶみ.JPG, Public domain, via Wikimedia Commons

この日本中央の碑が発見されたというニュースは、東北だけでなく、日本中の歴史学者を騒然とさせました。「東北には『日本中央』と彫られた『つぼのいしぶみ(壺の碑)』という石碑がある」という伝説が、古くから伝えられていたからです

平安時代、関東以西の日本を支配した大和朝廷は、東北地方を拠点とする蝦夷(エミシ)と争っていました。そして朝廷は蝦夷を征伐するために、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を征夷大将軍に任命。彼を東北地方に派遣します。

坂上田村麻呂は蝦夷を倒しながら、現在の青森県にまで進軍しました。その際に、彼は「日本の中央」に到達した証として、1つの巨石に「日本中央」と彫りました。それが、「つぼのいしぶみ」です。

「つぼのいしぶみ」は和歌では有名な言葉で、実は東北の歌の歌枕として使われてきました。つぼのいしぶみを歌った歌人としては、源頼朝や和泉式部、藤原顕昭、西行や慈円、岩倉具視などなど……枚挙に暇がありません。

「つぼのいしぶみ」について書かれた文献でもっとも古いものは、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』。その19巻に、次のように書かれています。

「いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ」

簡単に現代語に直すと、次のような内容になります。

「陸奥(むつ)国(現在の青森県と岩手県)には、『つぼのいしぶみ』という石碑がある。坂上田村麻呂が蝦夷たちを征伐しに東北の果てまで進軍した際に、『日本の中央まで制圧した』という証として、矢筈(やはず)を使って『日本中央』と刻んだ石碑である」

しかし、そんな伝説が東北で長らく語られていたものの……結局、「つぼのいしぶみ」が見つかることはありませんでした。

……1949年までは。

青森県の日本中央の碑は本物なのか?

『袖中抄』では「つぼのいしぶみ」の大きさについて、「四、五丈」と記しています。これはメートルに換算すると12~15mで、あまり現実的ではありません。そのため現在では、「四、五尺(1.2~1.5m)の誤りだろうとする説が主流です。

1949年に青森県東北町の石文で見つかった「日本中央の碑」は、高さ約1.5m。「四、五尺」という計算にはぴったりと合います。

さらに発見された場所が「石文(いしぶみ)」で、そのすぐそばには「都母(つぼ)」と呼ばれる地域もありました。こういった経緯から、この日本中央の碑が「つぼのいしぶみ」の最有力候補とされたのです。

しかし、各分野の専門家が何度も調査を重ねたものの……この「日本中央の碑」が本当に坂上田村麻呂の時代に掘られた「つぼのいしぶみ」であるのかは、結局、はっきりした答えは出ませんでした。

ですがここで注目してほしいのは、この「日本中央の碑」が本物なのか、偽物なのかということではありません。「つぼのいしぶみ」にまつわる最大のミステリーは、坂上田村麻呂が陸奥のことを「日本の中央」だと認識していたことでしょう。

なぜ青森県が日本の中央だったのか?

地理的に考えれば、日本の中央は文字通り「中部」である長野県あたりが妥当です。一方で、歴史や社会学の観点から考えれば、都のあった京都か奈良、あるいは江戸幕府と現在の首都がある東京が、日本の中心だと言えるでしょう。

間違っても、日本列島の果てに位置し、しかも日本の中央政権と関わりの薄かった青森県や岩手県が、「日本の中央」であるはずがないのです。

しかも奇妙なのは、「つぼのいしぶみ」について触れた文献は『袖中抄』の他にもいくつかあるのですが……「なぜ青森(陸奥国)が日本の中央なのか?」といった疑問は古い文献には1つも出てこないのです。

これは、当時の人はこのことを疑問に思っていなかった……つまり、「中世の時代の人にとって、青森県は本当に日本の中央だった」ということになります。

この謎を読み解くには、次のような説を立てるしかありません。

それは、日本列島がかつて、「にほん(日本)」と「ひのもと(日の本)」という2つの国に別れていたという説です。

青森県のイメージ

日本はかつて「にほん」と「ひのもと」に別れていた!?

中世の時代には、「にほん(日本)」に対して、東日本――とくに東北地方を「ひのもと(日の本)」と呼ぶ風習がありました。

たとえば1590年の豊臣秀吉の手紙には……

「小たはら(小田原)をひごろしにいたし候へば、大しゅ(奥州)までひまあき候問、まんぞく申におよばず候。にほん三ぶん一ほど候まま、このときかたくとしをとり候ても申つけ、ゆくゆくまでもてんか(天下)の御ためやきようにいたし候はん」(4月13日)

「小たはらの事は、くわんとう(関東)ひのもとまでのおきめにて候まま、ほしころしに申つくべく候間、としをとり申しべく候」(5月1日)

……とあり、秀吉は明らかに「にほん(日本列島の総称)」と、「ひのもと(宮城県から北、あるいは奥州)」を区別して使っています。

「にほん」と「ひのもと」は、漢字で書けば「日本」と「日の本」。平仮名が生まれる奈良時代以前なら、どちらも「日本」と書き表します。

「日本中央の碑」が実は「ひのもとちゅうおうのいしぶみ」であったとするならば、「青森が『日の本(ひのもと)』=東日本の中央だった」という意味になります。これなら青森県が「日本の中央」だとしても、不思議はありません。

そもそも日本は、古代には『倭国(わこく)』という国名で呼ばれていました。しかし7世紀末~8世紀初頭に、天皇を中心とした中央集権・律令国家が成立したのを期に、国号を「倭国」から「日本」に改称したのです。

「日本」という国名が登場するもっとも古い文献は、中国唐時代(618~907)の歴史書、『旧唐書(くとうじょ)』。そこには、「日本国は倭国の別種なり」と書かれています。

そして、倭国がなぜ「日本」という名称になったかについては、次の3つの理由で説明しているのです。

「其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」
「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」
「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」

1つ目の理由は、日本列島が太陽の昇る「日の本の国」だったこと。2つ目は、蔑称である「倭国」という名を日本が嫌ったこと。そして3つ目は、日本という小国を倭国が取り込んだから……。

1つ目と2つ目の理由は妥当に思えますが、3つ目の理由はいまいち意味がよくわかりません。そのため、この1文についてはいろいろな解釈がされているのですが……

古代の日本列島が、西日本を中心とした天皇(大王・大和朝廷)の治める「倭国」と、東日本の「日の本(ひのもと)」に別れていたとしたら……この理由にも納得がいくのです。

東日本、日本海沿岸の地域は、実は弥生時代から中国大陸と親密な交易をしていたことがわかっています。

大和朝廷率いる倭国(西日本)は、ヒノモト(東日本)を征服した。しかしヒノモトは既に大陸と交流を密にしていた。その交易を倭国がつつがなく引き継ぐためには、「ヒノモト(日の本)」という国名を変えるわけにはいかなかった。しかし、征服した国の名前を宗主国が名乗るのはよろしくない……

そこで、「ヒノモト(日の本)」という国名を、大陸に向けて漢字名は同じにしたまま、国内に対しては「にほん(日本)」という違う読みで国号を発表した……のではないでしょうか?

もちろん、中世の時代においてはヒノモトは既に日本(大和朝廷)に併合されています。しかし戦国時代の頃までは、東日本、あるいは東北地方のことを「ひのもと」という古名で呼ぶ慣習がまだ残っていたのかもしれません。それならば、秀吉が東北地方を「ひのもと」と呼んだことにも納得がいきます。

また青森県の津軽を治めていた安藤氏は「日之本将軍」を自称し、しかもそれが天皇に認められていました。これははっきりと「ひのもと」と読めますね。

まとめ~青森県は日の本(ひのもと)の中央だった~

日本神話における東日本とは、大和朝廷に従わなかった「まつろわぬ民」が住む魔界です。また古代から中世においても、東北地方は天皇の権力が及ばなかった蝦夷の治める土地でした。
さらにその後も奥州藤原氏が独自の政権を築くなど……東北地方は日本の歴史において、中央政府から長らく「日本とは違う国」として扱われ、排斥されてきたのです。

青森県東北町で見つかった「日本中央の碑」は、東北地方が「ひのもと」の中心であることを示す……中央政府にあらがい続けた、誇り高き証なのかもしれません。

<参考文献>
喜田貞吉『国号の由来』(1937)
高橋克彦『東北・蝦夷の魂』(2013)
永峰文男編『文選 つぼのいしぶみ』(1968)
七戸町史刊行委員会編『七戸町史』2巻(1984)
藤原顕昭『袖中抄』(1185~1190)

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