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中甚兵衛、大和川つけかえ成功の奇跡

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元禄時代、大和川つけかえを実働7カ月半で奇跡のように成し遂げ、河内平野が全て泥水につかってしまった寅年大洪水のような悲惨な災害を防ぎ、大阪のさらなる発展にも貢献した中甚兵衛の物語です。
どのようにことを進めたのでしょうか。

目次

中甚兵衛

中甚兵衛は河内国今米村、現在の東大阪市今米の庄屋の三男として生まれました。
家の近くを流れる大和川は、当時、幾つかの川に分かれて北部の河内平野に流れ込んだ後、大阪城の近くで淀川に流れ込んでいました。東から西への土地の傾斜が少ないので、大雨が降ると洪水がおこります。これを防ぐには、大和川をまっすぐ西に向け大阪湾に流れ込むようにするしかないと訴えたのです。

何とかしたいと思っていた甚兵衛は、父が他界した翌年19歳のとき、考えをまとめて江戸にある幕府の役所に「大和川つけかえ」を願い出し、江戸に滞在して粘り強く交渉を行いました。幕府は、願い出てからの3年後の西暦1660年「つけかえ調査」を行いました。
ですが、計画した川の流域からは強い反対があり、甚兵衛には、曽根三郎右衛門と、山中治郎兵衛という熱心な同志がいて協力してくれたのです。

つけかえ調査

大阪で水害のあった1671年の3度目の「つけかえ調査」で、風向きが変わっていきます。1672年、甚兵衛は35歳にで結婚。1674年の6月に寅年大洪水が発生するのですが、幕府は付け替えを反対する識者の河村端賢という人の意見を取り入れ「つけかえ」は認められませんでした。

気がつくと甚兵衛は49歳。やがて、河村端賢が亡くなりました。
1701年と1702年にも大水害が発生し、ようやく幕府は方針を変え、1703年10月に「つけかえ」が決まりました。つけかえ工事は1704年の2月27日にはじまり、同年10月13日に完了。
姫路藩、岸和田藩、明石藩、三田藩など、幾つかの藩と幕府とで工事区間を分担したので競い合いとなり、予定よりも早く進んだのです。藩や幕府は、監督し費用を出すことを行い、職人さんが実際の工事を進めました。

甚兵衛のねばりが実を結ぶ

工事が終わると、もとの川筋の入口をふさいで工事を完成。農民は洪水から解放され、河内木綿などの栽培も進み、大阪発展のもととなりました。「つけかえ」の成功は、中甚兵衛の新川筋の選択の正しさと強い熱意、つけかえ運動の協力者や家族の支え、幕府に必要性の理解者、近傍藩と幕府との協力などにより、奇跡が起きたと思います。
なにより、甚兵衛のねばりが実を結びました。大した人物であると思います。

※画像はイメージです。

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