後継者争いに敗れ去った薄幸の美貌貴公子「上杉景虎」

  • 2020-11-23
  • 2020-11-21
  • 戦史
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毘と龍の軍旗をはためかせ、戦国に疾風を呼んだ聖将上杉謙信以下、剛将上杉景勝、名君上杉鷹山などを輩出した歴々たる上杉家。
その連綿と連なる系譜の蔭で、敗北者として表舞台から逐われ闇へと葬り去られた哀しき武将。
流転を重ね、そして謙信が最も愛しんだ養子、その武将は「上杉三郎景虎」。

北条氏康の七男北条氏秀こと、のちに上杉謙信の養子となった上杉景虎。
天文23年(1554年)関東の覇者小田原北条家四代目氏康の七男として出生した氏秀は、幼少期に箱根の早雲寺へ預けられ出生堂と称していたが、11歳か12歳の頃に武田信玄、今川義元、北条氏康の世にいう甲(武田)、駿(今川)、相(北条)三国同盟継続の人質として、武田家に赴き武田三郎氏秀と名乗りを変えました。

三郎となったのは信玄の三男信之(早世)の名跡を継承、ところが永禄10年(1567年)には三国同盟が破綻、三郎氏秀は北条家に送り返されました。
その後に大叔父北条幻庵の養子となっていた氏秀でありますが、元亀元年(1570年)の越(上杉)、相(北条)同盟締結により再び人質として今度は上杉家に送られます。

氏秀弱冠17歳、戦国の非情な論理に翻弄される流転の貴公子に、海内きっての義侠漢の謙信の心も揺り動かされ氏秀を養子として手厚く迎えただけではなく、己の初名「景虎」の諱を授け上杉三郎景虎と名乗らせるだけではなく、謙信の姉仙桃院の娘(謙信の姪)を娶らせ、春日山城の二ノ郭に居住させました。

謙信の養子は他にも上杉景勝が存在していて、謙信亡き後の上杉家後継者争いで勝利した景勝が上杉家の家督継承したことは周知でしょう。
ですが謙信自身は己の後継者と定めていたのは景虎であったと思われます。

その証となるのは、長尾姓を景勝が謙信から上杉姓を授かったのは天正3年(1575年)であったのに対して、景勝より1歳だけ年長の景虎は5年余り先んじて上杉姓を名乗りました。

春日山城における景勝の屋敷が三ノ郭でしたが、景虎の屋敷は本丸に近い二ノ郭で景勝の出自である上田長尾家こそ謙信にとって、父祖の代より宿敵家であったこと、約1年にわたり繰り広げられた景虎と景勝の家督継承戦において、謙信の養父で元関東管領の上杉憲政(謙信に上杉の族称を譲渡した人物)に加え、上杉家の中枢部将、謙信の側近が一貫して景虎支持であったことなどがあげられます。

天正6年(1578年)3月13日、謙信が春日山城内にて急死するやいなや、家督継承戦は勃発します。世にいう御館の乱です。
即時に軍事行動を開始した景勝方が、本丸を全面占拠したのに対して、景虎方は謙信の遺骸が安置される本丸への攻撃を手控え春日山城を退去、上杉家の政庁である御館(春日山城より北東約3キロ)に本営を移します。

序盤は景虎方が圧倒的に優勢でした景虎の実兄である、北条氏政率いる北条勢(陣代は氏政の三弟氏邦)に加え、氏政の妹(景虎の姉)を室とする武田勝頼率いる武田勢が景虎支援のために越後に出陣していました。ですが、その支援体制は長く続きません。

上越国境の三国峠辺りに布陣した北条勢が、二ヶ月あまりも滞陣して積極的な展開を見せなかったため、その意図を疑心した武田勢が景勝方の和睦申し入れを受諾、撤兵してしまったからです。
北条勢の景虎救援の進軍は陽動で、実のところ武田領への侵攻を画策していた可能性が強い、武田勢の撤兵を機に北条勢はそそくさと本国へ撤兵、まるで景虎という火中の栗を拒むようにです。

景虎は自陣の重鎮北条景広へこう書き送っています。
「北条勢が本国へ引き返していったのは最もなことである」
消極的展開に終始した実家の北条の動静を冷徹に見詰める、景虎の心情たるや胸に迫るものがあります。

北条勢の撤兵により、景虎方を取り巻く戦況は雪崩的に悪化の一途をたどり、越後領内に多く点在する国人領主たちが上杉家の威令に服し、軌を一にしていたのも謙信あればこそ謙信亡き後は力のある側、財のある側に付くは自明の理です。

外敵(北条・武田)に煩わされる心配のなくなった景勝方が、謙信死去直後より占拠していた春日山城本丸の金蔵から、膨大な金銀を諸方の国人領主たちにばらまき、景勝方の傘下に参じる者が続出し景虎方は圧迫されます。もはや状況を挽回する術もなく、覚った景虎方は翌年の3月17日、景虎の嫡子道満丸9歳を上杉憲政を伴わせて和睦交渉に赴かせますが、景勝方により共々惨殺の憂き目をみます。

交渉の余地など残されていなかったのです。
同日、御館は完全包囲されます。景虎の妻は道満丸殺害の報せを受け夫の武運を祈り自害、館に放たれた火は紅蓮の渦と化して女子供を焼殺してゆきます。
落城時には阿鼻叫喚の地獄絵図を後に、徹底抗戦を期した景虎は僅かな供廻りと共に御館を脱出、包囲陣を突破して景虎方の有力拠点鮫ヶ尾城にたどり着くのでした。

城内に迎え入れこそすれ、絶望的劣勢に陥る景虎に殉ずる忠誠心など城主堀尾宗親は持ち合わせてなどなく、宗親は二ノ丸に火を放ち城兵を引き連れ退城して景勝方に寝返ります。
万策尽きた景虎は本丸において自害、享年26歳、最後に景虎のその脳裏に過ったものは何だったのでしょうか。流転、薄幸に終始の生涯、景虎が幸せに感じたのは謙信が生きていて景虎を愛しんでくれていた頃だけだったのではないでしょか。

※画像はイメージです。

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