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防護巡洋艦「畝傍」消失の謎と都市伝説について

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1886年(明治19年)に完成し、日本に回航される途中に突如として謎の失踪を遂げた「畝傍」について、まとめていきたいと思います。

目次

防護巡洋艦「畝傍」とは?

畝傍は大日本帝国海軍が1884年(明治17年)にフランスのル・アーヴル造船所に発注した 防護巡洋艦です。機関航行時の速力18.5ノットを有し、武装は24センチ砲4門に15センチ砲7門と、35.6センチ水上魚雷発射管4門を備え、当時においては最新鋭の船として建造されたのです。

1886年(明治19年)10月に完成して、フランスから日本に回航される途中、シンガポール沖にて連絡を絶ち、そのまま消息不明となり、現在になっても乗員の遺体はおろか、その残骸すら発見されず、歴史から姿を消した謎多き船として知られています。

一説では、敵対していたロシア帝国海軍に拿捕されたと言われていますが、別の次元へ消えた、南極大陸の地下世界へと流れていった等、オカルト雑誌の特集で組まれるほど、この船の消失の謎について様々な憶測が飛び交っていました。

その中でも真実味のある取り上げていきたいと思います。

Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

イギリス・ビルマ戦争に参戦した?

畝傍はイギリス・ビルマ戦争こと「英緬戦争」に参戦していた可能性があると言われています。
当時ビルマは、イギリスによって設立された東インド会社によって、ベンガル地方を植民地化されていました。1818年においてビルマを治める王は、ベンガル地方の割譲を要求しましたが、イギリスは応じず、ついに1822年にビルマ軍はベンガル地方へと進軍しました。

しかし当時のイギリスは産業革命の真っただ中であり、軍備が徹底的に強化され、ビルマ軍の戦力では対抗できない圧倒的な軍事力の差があったのです。

ビルマ側は戦力不足を補う為、他国に打診しました。
当時イギリスの海外進出を快く思わない国は多く、しかし相手は大国であり、下手な仲裁で機嫌を損なわせるわけにもいかず、秘密裏に軍備を送ったとされていたのが、畝傍だったと言われているのです。

無論、この話に明確な証拠はなく、畝傍がビルマに向かった記録もありませんが、ビルマはイギリス相手に第三次英緬戦争まで戦い抜いた記録は確かにあります。その際に最新鋭の武装を持った海外の傭兵部隊の存在も確認され、その中には日本人などもいたとされています。

当時の背景と憶測

畝傍はビルマで名も傭兵部隊の無き船として戦っていた、何故にこのような話が生まれたのか、その背景には様々な当時の憶測があったからです。畝傍は南洋の無人島に漂着した、また畝傍は海賊に拿捕され、海賊船として活動しているなどの様々な憶測が語られていました。

あの冒険小説家の押川春浪先生においては、西南戦争で生存を果たした西郷隆盛が畝傍に乗船し、冒険するという小説を発表しており、この戦争で生き抜いた生存者が、そう語っていたと逸話なども存在しています。

後にビルマで活躍するハリマオも、畝傍のクルーの一人だったとされるなど、畝傍はオカルトの類としても名を残す事となります。

はたして畝傍はどこへといったのでしょうか?ビルマで戦ったのか?異世界へと渡ったのか、それとも・・・
いつか明かされる日が来るのかと、時折考えてしまいます。

eyecatch source:Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

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