MENU

戦地に赴いた祖父と家を守っていた祖母、母が2歳の頃の戦争体験

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

親戚一同が集まった時に思い出話として語られました。

目次

第二次世界大戦

戦争の話について、実際に戦地に行った祖父は一人ではなかなか語りたがらない人でした。
二人きりで話しを聞いたことはありません。
この話を聞いたのは、親族が本家に集まった時の思い出話のひとつとして聞いた話です。

第二次世界大戦、祖父は赤紙で招集され外地に派遣されたそうです。
普通の精神状況ではないので、同じ部隊の兵隊が死んでも何とも思わず、むしろ死んだ仲間の腰からぶら下げられている飯ごうから、すっかり変色した米を盗んで食べていたそうです。

「何とかして生き延びないと」という思いしかなかったと話していました。
死人の飯ごうを盗んでいることがバレると、自分の飯ごうも盗まれてしまうので草むらなどの人目ののないところや、死んだ兵隊の前で悲しんだふりをしながら食べたそうです。それだけ、必死に生き抜いたことが感じられました。

戦地に夫を送り出した祖母

その頃の、祖母は4人の子供を抱え田畑の仕事をし、何とか食べていける程度の自給自足ができていたそうです。
米兵が来た時に備えて竹槍の練習に勤しんでいたと話していました。
地元の主婦や学生が空き地に集まっては、竹で作った槍を持ち手拭いでハチマキを巻き、「やれー」「鬼畜米兵」などという掛け声と共に木に藁をまいた人形を米兵に見立てて、竹槍を指していく。

当時、私の母は2歳だったにも関わらずその異常な光景を鮮明に覚えているそうです。
その話を聞いた時は、誰もが「竹槍なんか何の意味もなかったのにね」と思っていましたが、祖母の中では、今でも竹槍で米兵を殺せると信じていました。戦争というものを経験した人にとっては、異常な精神状態で信じたものは疑わなかったんだと思うと怖かった。

終戦

終戦から数か月後、祖父が自宅に戻ってきた姿を見て4人の子供たちは喜んで「お父さん帰ってきたー」と大声で母を呼んだそうです。祖母は何も言わず、お風呂を焚き新しい着物を用意すると、すぐに炊事に取り掛かったそうです。

当時、子供だった叔父や叔母が「なんであの時、おかえりとか言わなかったの?」と聞くと祖母はポツリと「幽霊だと思った。生きて帰ってくるとは思っても見なかった」と。
その日の夜になって、やっと夫が生きていることを実感した祖母は一晩中泣いたそうです。

祖母は、一人で子供を育てていく決意をして夫を戦地に送り出したのです。
その覚悟を互いにもっていたという時代があった事実に打ちのめされました。

※画像はイメージです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次