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幕末を伝えた記者「チャールズ・ワーグマン」はイラストレーター!

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幕末に日本に来たイギリス人で、外交官以外にも活躍した人がいたのでご紹介しますね。

目次

幕末の日本

幕末明治維新の頃は、きら星のごとく色々な人物が輩出しました。
明治維新を成し遂げたのは、維新の志士たちだけだと思っているかもしれないですが、外国公使とか公使館員とかも関わっていたのですよね。そして、もうすでに19世紀で欧米では新聞が発行されていたのですが、日本での様子を伝える記事も掲載されていました。
現在のように写真入りではなくイラストだったので、「イラストレイティッド・ロンドン・ニュース」というイギリスの新聞が有名で、この日本の記事とイラストを描いていたのがチャールズ・ワーグマンというイギリス人でした。

チャールズ・ワーグマン

このワーグマンは、1832年スウェーデン系イギリス人でロンドン生まれ。1852年ころにパリで絵画を学んだとか、陸軍で退位を務めたこともあるとか、はっきりしないのですが、とにかく1857年に特派員として広東のアロー戦争取材のために東アジアに来た後、文久元年(1861年)に長崎に来、イギリス公使ラザフォード・オールコックとともに江戸まで旅行したのです。

ワーグマンはイギリス公使館となった東禅寺で水戸藩浪士の襲撃を受けた時、縁の下に避難して事件の一部始終を記録、記事とスケッチを描いて横浜から発信したということです。日本が気に入ったのかそのまま居ついて、翌年、横浜の居留地に住む外国人向けの雑誌「ジャパン・パンチ」を創刊。

これはイギリスの風刺漫画雑誌「パンチ」の日本版ということで、当時の横浜居留地の人々の暮らし、幕府や明治新政府、在日公使館などの批判や同業の英字新聞についても、風刺漫画と文章で攻撃したりで、約22年にわたって月刊誌として刊行されました。

Charles Wirgman (death on 1891), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

画家として

そういう感じで、ワーグマンは薩英戦争にも従軍して写真家ベアトとともに記事を書き、四国艦隊下関砲撃事件にも記事やイラストを描いてロンドンに送る一方で、明治時代の有名な西洋画家の五姓田義松や高橋由一を指導したりと、画家として日本人にも影響を与えました。
「ジャパン・パンチ」の風刺絵は明治期に「ポンチ絵」という浮世絵の一種の滑稽、諷刺的な絵を生み出し、後の漫画の原点となったというのです。

幕末の駐日イギリス公使館には、アーネスト・サトウを筆頭に有能な人たちが何人もいて、維新の志士たちにアドバイスしたりと明治新政府誕生に貢献したうえに、日本学の研究者として多くの書籍を残したのは有名ですが、記者として活躍したワーグマンもイラストや記事で当時の様子を残した上に、明治の洋画家を育成し、面白い風刺絵が漫画の原点となるなど、なかなかの影響を与えたということですね。

最後は日本で


このワーグマンは、サトウの回顧録の「一外交官の見た明治維新」では、けっこうお気楽で面白い男として登場し、サトウとふたりで珍道中みたいな旅行をしたりしています。

ワーグマンは、一時イギリスに帰国したが、再び来日して明治24年(1891年)、横浜で58歳で死去し、横浜外人墓地に葬られました。毎年命日の2月8日に「ポンチ・ハナ祭り」がワーグマンの墓前で開催され、ワーグマンが忘れられていないなんて、すばらしいと思います。

featured image:Paul Hermann Naumann, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

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