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女は苦労が絶えない?昔の人はどうやって生理に対応してたのか

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第二次性徴期にさしかかった女性なら避けては通れない現象、生理。
現代では月経前症候群、通称PMSの存在も知られ、男女ともに理解が深まってきました。
しかし百年前、さらにその前ともなれば、生理を穢れとして忌み嫌い隠そうとする風潮があったのも事実です。

生理痛に効く鎮痛剤や生理用パッドがない時代、女性はどうやって生理に対応していたのでしょうか?
今回は昔の人々がどうやって生理に対応していたのか、気になる知恵を掘り下げていきます。

目次

赤不浄は小屋に隔離?江戸時代に生きた女性の苦労

平安時代の宮中医・丹波康頼が著した日本最古の医学書『医心方』にて、月経は「月の穢れ」と書かれていました。
経血を受ける布は「月帯(けがれぬの)」として紹介され、生理用品の最も古い形として記録されています。
古代日本には女性の月経をケガレと見なし、生理が終わるまで家族から遠ざけ、小屋に軟禁する風習がありました。
これは出産時も同様。分娩時の出血がケガレと見なされ、女人禁制の霊山が生まれました。

この風習は「赤不浄」といわれています。
生理中の女性が身内にいると他の家族も障りを受けるとされ、特に漁師・大工・鍛冶師の家は敏感になっていました。
この隔離小屋は通称タヤもしくはカリヤといわれていました。地方によってはもっと直接的な表現を用い、タビゴヤ・ヒゴヤ・よごれや・不浄小屋などとも称されていたというのですから酷いですね。

隔離小屋に軟禁された女性は家事労働などから一時的に解放されるものの、そこは狭い村落共同体のこと。
小屋に移動した時点で生理期間に入った事がバレバレになる上、通りかかる男や悪ガキたちに囃し立てられたそうです。
同様の風習は世界各地に存在し、現在もネパールには生理中の少女を隔離する小屋があります。

上記の風習はチャウパディと呼ばれ、2019年にも21歳のネパール人女性が、実家から90メートル離れた窓もない隔離小屋に滞在中命を落とす痛ましい事件が起きました。
当時の日本において月経は口にだすのも憚られる忌み事であり、その対処法は母から娘に継承される形で、ひっそり伝授されてきたのです。

これには家父長制度や男尊女卑の文化も少なからず影響しており、男性たちが理解できないものとして、月経やそれに纏わる事柄を忌避してきた背景とも無関係ではありません。

月経中の女性が触れると穀物が萎れる?

欧州のキリスト教文化圏においても、月経中の女性は様々な偏見にさらされてきました。
中世ヨーロッパの女性たちのは経血をしみこませる素材として、吸収性に優れたリネンを好みました。
この布はラグ、またはクラウトと呼ばれ、当時の女性たちは折り畳んだラグを股にあてがい、ガードルにピンで留めていたのです。いわば生理パットのご先祖様ですね。
しかし洋の東西問わず、生理が忌避されていた事実に変わりはありません。
キリスト教の信者もまた経血を不浄なものと見なし、「悪魔が宿る」と恐れていたのです。

不潔なラグ、醜悪なクラウトといった言い回しからも、当時の人々の月経に対する嫌悪感が伝わってくるのではないでしょうか。
「月経中の女性が触れると穀物や野菜が腐る」「ワインが酸っぱくなる」「犬が狂って走り回る」等の流言飛語も飛び交い、該当する女性たちは肩身が狭い思いを味わってきました。
ラグやクラウトを持たない女性は、シフトと呼ばれる肌着やペチコートを身に付け、衣類に直接血を吸わせていました。
中世のペチコートに赤色が多かったのは、経血のシミをごまかす為だと一説にいわれています。

さらに女性たちは血の匂いを隠すため、ナツメグをはじめとするハーブのポプリを常に持ち歩いていました。
正しい医学の知識など皆無な時代、女性の股から血が出る現象に戦慄する人々がいてもおかしくはありません。
医学の大家ヒポクラテスでさえ「運動を怠った代償として余った血を体外に排出している」と誤った説を唱え、瀉血を勧めた位なので、女性たちの受難に同情を禁じ得ません。

生理中の交わりは厳禁!遊女の素股テクニック

これもまた洋の東西問わず、生理中の交わりはタブー視され、極力避けられてきました。
日本における経血は赤不浄の最たるもの。故にケガレが伝染るとされ、月経中の女性は隔離小屋に送られました。
花街の遊女も月経中は仕事を休みます。とはいえ彼女たちの多くは莫大な借金をしている身、花魁クラスの売れっ子でもなければわがままは通りません。
仕方ないので身上がりを使いました。
これは自分の揚げ代を払って休むシステムで、当然の如く借金に加算されます。

身上がりを使えない遊女は素股で客を満足させるなど、高度なテクニックが要求されました。
一方、「生理中の遊女を買いたい」とわざわざ望む変態もいました。
江戸時代の生理は女性が経血用に用いたふんどしの形状から「お馬」または「赤馬」と呼ばれており、「赤馬に乗れば性病が治る」と事実無根のデマが流れたのです。
生理明けのぼぼ(女性器)は格別柔らかいと信じられ、それ目当てに押し寄せる客も大勢いたというのですから、人間の性欲とは凄まじいものですね。

西洋の一部の人々は「経血は毒」と信じ、「生理中の女と交わったら陰茎が爛れる」「赤毛の子供が生まれる」等の妄言が飛び交いました。
余談ですが西洋の価値観において、黒髪は神秘・エキゾチック、金髪は善性、赤毛は魔性・娼婦の象徴とされていました。
赤毛の子供が生まれるというのは上記の迷信をもとにした考えです。

ふんどしから生理用パットへ。時代の変遷

生理用パットなんて便利なものが存在しなかった時代、江戸の女性たちは専用のふんどしを巻き、布の表面に経血を吸わせていました。ほかにも膣に紙や布を詰め、その上から丁字帯で押さえるなどし、様々に工夫していたのです。

生理用ふんどしの代表的な素材として挙げられるのが浅草紙。
これは和紙の再生紙をさし、ナプキンのように挟んで締め、経血を吸わせていました。
浅草紙の入手が困難な農村部の女性は、身近にある綿やススキの穂を使っていたそうです。
唾で湿した紙の玉を膣に挿入する方法もあり、この紙玉は「赤玉」「込め玉」といわれました。

日本最初の生理用品が誕生したのは1901年、明治に入ってから。
タンポンの登場は1938年ですが、この前後に戦争が勃発し、多くの女性がストレスから来る戦時性無月経を患ったのに注目してください。
生理用品が実用化に至るのは第二次大戦後。
この頃には脱脂綿をあて、股の部分にゴムを張ったゴム引きパンツが主流となります。そして1961年、アンネナプキンが発売され全国に普及していきました。

昔の人の生理の回数は現代の9分の1

江戸の女性が生涯通して経験する生理の回数は50~60回程度。対する現代女性は約450回、およそ9倍に増えました。
昔は栄養状態が悪く平均寿命も短かった為、女性が体験する生理の回数自体少なく、世間に広く理解が行き渡りませんでした。

初潮を迎える年齢も15・6歳と、今と比べかなり遅いです。
加えて一人あたりが妊娠・出産する回数が多く、十数人の子沢山も珍しくないせいで、生理の回数が少なくてすんだとする説が有力視されています。

現代女性の生理痛が重くなりがちなのは、食事事情の改善はもとより、食品添加物を取り込んだ事によるホルモンバランスの乱れも関係あるのではと専門家は指摘しています。
昔の女性たちが手製の生理用品で試行錯誤していたのを見ると、現代に生まれて本当によかった、と安堵する人は少なくないでしょうね。

まとめ

以上、昔の人々の生理の対応や考え方をご紹介しました。
この記事がきっかけになり、少しでも女体のメカニズムへの知識が深まれば幸いです。

※画像はイメージです。

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