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世界制覇にいちばん近かった国はどこ?最も遺伝子を残したのは誰?

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地球が誕生して46億年。無窮の宇宙にくらべれば、人類の歴史はようやく産声をあげたばかりだ。
大宇宙の片隅の、ほんの時の間の歴史において、名実ともに世界を掌握した人間はまだいない。全世界がいかなる形をしているかを正しく認識したうえで、世界の王を公言した者もまだいない。
では、それに最も近づいた国はどの時代のどの国だったのだろう。

ここで早々に難題に突き当たる。
そもそも「世界制覇に最も近づいた国」の定義とはなんなのか。どんな尺度で「最も近づいた」と判断するべきなのか。
最大版図か、人口比率か、繁栄の年月か。それとも征服した国の数か、領土拡大のスピードか。はたまた地球上で最も子孫を繫栄させた、どこかの国の王様の遺伝子レベルの話なのか。
基準となりうる条件を考えればきりがない。何をよりどころにするかによって結論も変わってくるだろう。

本稿で対象とした国々は、かつて地上に興亡し、検証可能なデータを収集できた帝国に限定した。また数値化された総人口・総面積等のデータは推定による部分が大きく、研究機関や歴史学者によって揺れもあるため、確定値ではないことをご了承いただきたい。

目次

人口比率No.1~アケメネス朝ペルシア

「世界征服」という言葉の「世界」とはどこか。「世界」とは、その時その人が知っている地理学上の範囲にすぎない。
BC23世紀、アッカド帝国の大王ナラム・シンはメソポタミアを征服して「四方領域の王」を宣言した。全世界の帝王として君臨した秦の始皇帝も、実際は中華文化圏を支配したにすぎなかった。

「その時々の世界の広さ」はひとまず脇において、世界人口における人口比率をみてみると、1位はBC480年頃のアケメネス朝ペルシア。古代オリエントに栄えた、「王の目」「王の耳」の帝国だ。当時の世界人口は推定1億1200万人、そのうちアケメネス朝の支配下にあったのは5000万人。地球上の人類の約45%、つまり半数近くを統治していたという点ではナンバーワンということになる。
次点はおそらく「蒼き狼」のモンゴル帝国だろう。しかし残念なことに、最大人口が13世紀の1億1000万人ということはわかっているものの、当時の世界人口が資料によって大きく異なるために人口比率を割り出すことが難しい。25%とする見方もあれば、50%以上とする見方もあり、定かではないのだ。仮に後者であれば、アケメネス朝ペルシアはトップから陥落する。

ところで、この人口比率という尺度。たしかに同時代の国々の大きさを推測するバロメーターにはなるのだが、異なる時代の国々を比較する場合は有効といえるだろうか。世界人口は時代によって推移するからだ。

最も広大な領土~大英帝国

地球上に最大の版図を築いた国は、世界中の陸海を支配域に取り込み、20世紀初頭に最盛期を迎えた大英帝国。
すでに「世界の広さ」が判明していたこの時代、その領土は3550万平方キロメートルに及び、世界全土の23%を占めた。ただし、この広大な版図は植民地、自治領、委任統治国等を含んだもの。戦争に勝利して獲得した領地はあるものの、後述のモンゴル帝国のように、列強を破竹の勢いで打ち滅ぼして領土を拡大していったわけではない。

大英帝国は島国としての生存戦略に長けており、大規模な領土の維持に成功し、安定した繁栄期が長く続いたが、フランスというライバル国が常にいて、世界統一にはいたらなかった。帝国の終焉についても見解が分かれるが、香港を中国に返還した1997年にを迎えたといえるのでははないだろうか。

次点は僅差でモンゴル帝国。最大版図は世界の18%に相当する3300万平方キロメートル。ローマ教皇が「キリスト教徒になりなさい」と諭したところ、「断る。おまえが我らに貢ぐのだ。さもなければ死ね」と返されて、心底ビビったという黒逸話がある。

パクス・モンゴリカ~モンゴル帝国

「地つづきの国」としては文句なしに世界一のモンゴル帝国。
小さな部族に生まれたテムジンが、モンゴル高原に割拠する諸部族の抗争を自らの才覚ひとつで終結させ、遊牧民をまとめあげて、1206年に建国した騎馬遊牧国家である。

テムジンは、全モンゴルの統治者たるハン位に即位してからはチンギス・ハンと名乗った。ここで注目したいのは、モンゴル高原が当時の世界地図において激戦区中の激戦区だったという点だろう。常勝無敗とはいかないまでも、国外に飛び出してからの無双ぶりはつとに有名で、その馬蹄は東は中国、西は東ヨーロッパ、南はインド、北はロシアにまで達した。彼が征服した国は40を数え、領土獲得のスピードも速い。最大版図を築くのは、この天才の死後だという事実には驚くばかりだ。

モンゴル帝国の侵攻を食い止めるべく、ポーランド王国、神聖ローマ帝国とその他諸国、騎士団からなるヨーロッパ連合軍がポーランドに結集したのは1241年4月9日のことだった。結果、連合軍はモンゴル軍に完膚なきまでに叩きのめされ、ポーランド王ヘンリク2世が敗死した。のちに欧州の人々を震えあがらせ、語り継がれることになるワールシュタットの戦いである。
「軍事史上、モンゴル軍に太刀打ちできるのはナポレオン1世ぐらいだろう」とは軍事史研究家リデル・ハートの言葉だ。

彼らがユーラシア大陸を席巻できた理由は「軍事力が高かったから」のひと言につきる。綿密な作戦計画、騎馬民族特有の疾風のような機動力。矢の騎乗連射ができる兵士のポテンシャル、一糸乱れぬ戦闘スタイル。勝ち負けにこだわる気質も、戦においては大きな強みになっただろう。遊牧民は戦い方に恥の概念をもたない。正々堂々と勝とうが不意打ちをして勝とうが勝ちは勝ち。負けたが立派に戦った、という発想はない。負けることが恥なのだ。勝たなければ話にならない、という世界。

そして、もうひとつ。モンゴルを世界帝国たらしめた理由として意外に知られていないのが、徹底した情報戦である。

モンゴル軍は戦う前に勝利する

「ペンは剣よりも強し」を知っていたチンギス・ハンは、「血に飢えた征服者」たる自身のイメージを広く浸透させることにより、敵軍に恐慌を起こさせ、攻め入る前に士気を下げる戦法を好んで用いた。「モンゴル軍は勝つためには手段を選ばない」「抵抗する者は皆殺し」という風聞を流布させて、戦う前に降伏させるのだ。こんなエピソードを聞いたことはないだろうか。

ある日、チンギスが側近たちに「男子の無上の喜びとはなにか」とたずねた。
「それは、よく晴れた日に馬に乗り、狩りを楽しむことです」と皆が答えた。するとチンギスは首をふり、「ちがうな。男の最大の喜びとは、敵を征服し、その馬にまたがり、財産を奪うこと。敵が愛しむ者に涙を流させ、そのお顔を拝見すること。そして敵の妻や娘をわが胸に抱くことだ」とのたまった。

彼はこうした物言いと品格は分けて考えていて、それがプロパガンダとして有効な言説であれば広めることを奨励した。
「モンゴル軍=残虐・野蛮・無教養」というイメージが定着したのは、彼らが悪名を情報戦略として使い倒したことと、アジアを劣等視する欧米の人々の負の先入観によるところが大きいと思われる。モンゴル帝国についてまわる負のイメージは、欧米本位の価値づけを軸とする歴史家たちに引き継がれた。欧米の考えを「正しい」「先進的」とする見方は現代にも通じる部分が多い。

地球のゴッドファーザーは誰?

では、歴史上の人物で最も子孫を残したのは誰か。
英仏の大学教授の遺伝学研究チームが2015年に発表した研究論文によると、その人物はアダムではなくチンギス・ハンだった。アジアの127の地域に居住する約5000人の男性のDNAを解析して先祖のルーツをたどったところ、現在のアジア人男性の約4割が「11人の偉大な父」のうちの誰かの子孫であることが判明したのだ。実際の人口に照らしてみると、約8億3000万人のアジア人男性が11人の誰かの血脈を受け継いでいることになる。

その11人のなかで圧勝したのが、他ならぬ「恐怖の大魔王」だった。現在、彼の遺伝子を引き継いでいる子孫は世界中で1600万人。それはアジア系のみならず、ヨーロッパ系にも及んでいることが判明している。
この場合、「1人の人間が○○人の子どもを残した」のではなく、「子孫を通じて大勢の人間に血を残した」ことになるから、チンギスだけの功績ではない。しかし1人の男の遺伝子がパンデミックのごとく地球上にばら撒かれたという現象は注目すべきものがある。モンゴル帝国は地つづきの領土で世界を制したが、生物としても世界を制したといえるだろう。

National Palace Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

真に最大最強の国とは

人類史上、世界制覇に近づいたと呼べるのはどの国だろう。個人的には、やはり400年近くにわたって広範囲な領土を守り、繁栄を誇った大英帝国を選びたい。

植民が進むなかでの原住民虐殺、奴隷貿易、インド支配、アヘン漬けなど黒い歴史はたしかにある。しかし、もし大英帝国による征服がなかったら、その地域はどうなっていただろう。専制国家のもと、現地の人々は近代文明もキリスト教も知らずに貧困にあえいでいたかもしれない。
最大の遺産は、北米を征服してアメリカ合衆国を生み出したことだろう。現代人の価値観をつくりだし、全世界の文明化に最も寄与したのはこの国ではないだろうか。
もちろん言語で世界を征服した点も見逃せない。英語が事実上の世界共通語となったのは、植民地支配が全世界に広がったために多くの地域で使われるようになったからだ。

こちらの領土では夜なのに、彼方の領土では太陽が輝く巨大な帝国。七つの海を支配したこの国に、文字どおり太陽は沈まなかった。

参考
「帝国の最大領域一覧」「歴史上の推定地域人口」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

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