援軍がまさかの退却!漢たちがみせた散り際と運命の皮肉~上杉の悲劇(魚津城の戦い)~

弾薬も兵糧もつきた籠城戦。刻々と死が迫るなか、主君率いる援軍の姿が見えたときの喜びはどれほどのものだろう。その喜びも束の間、援軍が踵を返して去っていく光景を目にしたときの絶望は、いったいどれほど深いのだろう。

織田軍4万の猛攻を受けながら、魚津城を死守した男たちが味わった天国と地獄。彼らは最後の最後に何を思い、わが身に刃を突き立てたのか。あと一日。せめてあと一晩持ちこたえれば、本能寺の凶報がもたらされ、敵は包囲を解いて撤退していたはずなのだ。
魚津城の戦いは、まさに運命に翻弄された上杉の悲劇だった。

古文書『魚津在城衆十二名連署状』

上杉謙信亡きあとの越後。
大きな求心力を失った上杉家の間隙をつき、信長は北陸へ進攻する。甲斐の武田信玄ももういない。信長にとって、信玄なきこの世に恐れるものはなかっただろう。天下統一に向かうその気迫はすさまじく、越中の上杉勢はじりじりと押されていく。
天正10年(1582)3月、柴田勝家、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家らが率いる織田4万の大軍が魚津城を包囲した。

魚津城が上杉氏の支城となったのは謙信の代から。西に北陸街道が走り、陸海の交通の要所として、また敵の越後進攻を阻む防衛線の要として、上杉家の重要な拠点だった。
信長にしてみれば、越中を支配するうえでなんとしても落としたい城。かたや上杉にとっては防衛の最終ライン。この城を落とされたら、織田軍が一気に越後へなだれ込んでしまうのだ。魚津城の戦いは、この城を越後進攻の足がかりにしたい織田方と、明け渡すわけにはいかない上杉方の一戦だった。

上杉家当主・上杉景勝は最後の防波堤を死守するため、勇将たちを魚津城に送り込む。しかし、敵方も総大将の柴田勝家をはじめ、前田利家、佐々成政らそうそうたる面々。名だたる織田武将に包囲されるという不運に加え、平城(ひらじろ)である魚津城の防御面でのデメリットがあった。なにより、両軍に圧倒的な戦力差があったことも見逃せない。

城に立てこもる上杉軍は総勢3800(諸説あり)、攻める織田軍は10倍以上。籠城戦は守るほうが有利とよくいわれるが、それは後詰め(援軍)が来ることを前提とした話。攻城側が数倍の兵力を必要としたのもこのためだ。開戦の翌4月、孤立無援の魚津城では、若き総大将中条景泰以下12将が早くも玉砕の覚悟を越後の本拠・春日山城に書き送っている。この『魚津在城衆十二名連署状』が書かれたとき、城は昼夜を分かたず織田軍の銃撃にさらされており、すでに堀際まで敵兵が肉薄し、落城は時間の問題だった。それでも彼らが希望を捨てなかったのは、主君・上杉景勝が救援の兵を挙げると固く信じていたからだ。
「お館さまが、必ずや助けにこられる」
そう信じるのも無理はなかった。景勝はこれに先立ち、魚津城を守る彼らに向けて、一人ひとり名を挙げて激励の書状を送っている。
しかし、景勝にはどうしても越後を離れられない事情があった。

魚津城、80日間の攻防

上杉景勝は、魚津城の窮状を聞くたびに動きたくても動けずにいた。なぜなら、甲斐・信濃・上野には依然として織田軍が残留していたからだ。今、越後を離れれば、その隙をついて春日山城へ攻め込まれる危険性が高い。景勝は能登から救援隊を送るなど手をつくすが、いっこうにらちがあかない。

5月に入り、魚津城では二の丸が占拠され、いよいよ弾薬も底をついた。そんな矢先、信長が安土城へ引きあげたとの朗報が入り、ただちに景勝は救援の兵を挙げる。魚津城にほど近い天神山城に着陣したのは同月15日のことだった。天神山城は天神山の頂にあり、平地の魚津城からは空のなかに見える。孤立無援の守将たちには、主君が自分たちのために出陣したことがはっきりとわかったはずだ。

ところが、ほどなくして援軍は帰国を余儀なくされる。案の定、信濃と上野の織田軍が景勝不在に乗じて越後進攻の態勢に入ったのだ。兵糧も弾薬もつき、目の前で敵の猛攻にさらされている家臣たち。しかし、このまま織田勢にむざむざ春日山城進攻を許すわけにはいかない。景勝は断腸の思いで撤退の決断を下す。魚津城切り捨てという選択だった。このとき、自筆の書状を魚津城に送ったとされる。
「ここまで、ようこらえてくれた。降伏、開城を条件に織田方に和議を乞い、生きて越後へ帰還すべし。いささかも武道の落ち度ではない」
遠くの山にいったんは着陣した援軍が、今度は去っていく。目を疑うような光景に、魚津城の男たちは言葉を失ったことだろう。

12将がみせた見事な死にざま

主君が助けてくれない場合、戦場の家臣はどのような選択をするべきか。もちろん降伏する武将は少なくなかった。籠城戦では内通したり、寝返る者も多かった。それが戦乱の世で生き残る処世術だったからだ。

しかし魚津城の12将は、景勝の心中をくみ取っていたからこそ降伏することができなかった。彼らは生き残る道ではなく、織田軍の攻撃を魚津城へ引きつける道を選んだ。それがこの城へ送り込まれた者の使命と考えたのだろう。覚悟のほどは『魚津在城衆十二名連署書状』からもうかがい知ることができる。
「このうえは、みな討ち死にと覚悟を決めました。事の次第をお館さまによろしくご披露くださるよう、お願いいたします」
景勝が助けにくることを望みながらも、本懐は上杉家の存続。開戦から3か月たった6月3日、落城を悟った12将以下城兵は、遠く越後を思いながら一斉に自刃、ついに魚津城は陥落する。

戦が終われば敵方による首実検が行われ、誰の首かが確認される。彼らはもちろん、自分たちの首に名札がつけられることや、確認作業がしばしば困難をきわめることを知っていた。12将は、自らの名を知らしめるために木札に姓名を書き、それを耳に針金で通して結わえつけて果てていた。この散り際は織田勢にも見事と映ったにちがいない。

信長横死の凶報は自刃後に届く

魚津城陥落は、すなわち織田軍による越後包囲網の完成を意味した。勢いにのる織田勢の越後進攻は誰の目にも明らかだったが、12将が自決したとき、すでに信長はこの世の人ではなかった。「6月2日、本能寺にて信長死す」の凶報が越中に届いたのは、城将自刃の翌4日といわれる。

この急報に織田勢はあわてふためき、作戦行動を中止。潮が引くように越中から去っていった。上杉景勝は、この運命のいたずらに唇を噛みしめたことだろう。弔い合戦とばかりに今度は攻守を入れ替え、織田方の守備隊が残る魚津城に猛攻をしかけて、わずか一日で城を奪還する。

織田軍が撤退したあと、越後の人々は子どものようにいつまでも喜び合っていたと伝えられる。御館の乱、新発田重家の乱と続いた内乱で国内は荒れ果てていた。そこへ各地の緒田軍が一斉に進攻すれば、いたる所で戦が起こり、死者の数はどれほどに及んだことだろう。 もし魚津城が1か月やそこらで落ちていたら、越後進攻も早まっていたはずであり、そうなれば上杉家は信長の存命中に滅んだ可能性もあった。魚津城の将兵が命と引き換えに稼いだ3か月は、上杉家と越後の人々をたしかに救ったのだ。景勝は、魚津城で散っていった彼らを生涯忘れることはなかっただろう。

現代に生きる筆者が、魚津城12将の心中を推し量ることはできない。自刃の際に城将の一人が詠んだ歌を紹介して結びに代えたい。

「阿修羅王に われ劣らめや やがてまた 生まれて取らん 勝家が首」

※画像はイメージです。

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