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江戸の処刑人「山田浅右衛門」

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江戸時代の庶民の死刑は、下手人、死罪、獄門、磔、鋸挽、火罪の6種類があったのですが、「死罪」は斬首されたあと、死骸を試し斬りに使い、そのうえ財産が没収されて埋葬や弔いも許されませんでした。
ちなみに、下手人は牢の中で首を斬られ、身内が遺体を引き取って埋葬出来る軽い刑で、獄門、磔、鋸挽は3日間さらされ、火罪は火あぶりでした。

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山田浅右衛門家

この「死罪」の斬首を担当したのが、山田浅右衛門家。
御様御用(おためしごよう)として9代続き、首切り浅右衛門や人斬りとも呼ばれ、刀の試し斬りも務めていたのです。

試し斬りの流派「試刀術」は江戸初期に編み出された流派で、すえもの斬り専門だということです。
この流派で処刑人は世襲制。幕臣でしたが、次の代の腕が悪くてクビになり、弟子のひとりの初代浅右衛門が流派と処刑人の仕事を受け継ぐことになったのです。

浅右衛門家は名前は世襲でも、息子が継ぐとは限らず、息子よりも腕の立つ弟子に後を継がせたこともあったということです。なお、浅右衛門が御様御用となったのは、8代将軍徳川吉宗の頃なので、「暴れん坊将軍」に登場するのは時代的にもあっているわけですね。

浪人の身分

浅右衛門は幕臣ではなく浪人の身分で、その理由は幕臣となると処刑人の「副収入」が得られなくなるからという理由のようなのです。
というのは、刀の切れ味を試すために、実際に人間を斬って試すのが常識という時代だったのですね。

そういうわけで、試し斬りの依頼が罪人の死体よりも多くて、斬っては縫い斬っては縫いし、頼まれて刀剣の鑑定も行っていたということです。相手は豪商や大名なので、かなりの収入を得ていたとか。

そのうえに、罪人の死体からとった肝臓、胆のう、胆汁などを原料に、結核に効くという丸薬を作ってバカ売れして莫大な収入を得ていたということなんですよね。

こういう感じで3万石か5万石の大名くらいの収入があったと言われる浅右衛門ですが、その莫大な収入を処刑した人たちの供養に、惜しみなく使ったということで、東京池袋の祥雲寺には6代目朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っているそうです。

また、罪人の最期の辞世の句をわかるようになりたいと、3代目からは俳諧を学ぶようになったというのです。処刑を行う前後には芸者を呼んで宴会を開いたりして、厄落としとして莫大なお金を使ったということです。

明治後は

明治後は新政府が試し斬りを禁止し、浅右衛門は継続の嘆願書を出したにもかかわらず、人胆なども取り扱い禁止。
1880年に死刑が絞首刑となったので、浅右衛門家は廃業となってしまいました。
安政の大獄での吉田松陰の処刑を行ったのも山田浅右衛門でしたが、潔さなどかなり印象に残る若者だったと語ったと言われています。

山田浅右衛門、清々しささえ感じるのですが、松陰先生も試し斬りされて肝臓とかもと考えるとちょっと怖いですね。

※画像はイメージです。

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