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忠義の士!!山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)

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主家の尼子家再興ため「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に願掛け、自身の生涯をかけた忠臣の戦い。

戦国の世にあって、山中鹿介幸盛ほどの忠臣はいないであろう。
山中鹿介幸盛が生まれた天文14年8月の頃の主家尼子氏は、中国地方の覇権を大内氏と覇権を争っていた。尼子氏の全盛期は中国地方11ヶ国を支配した尼子経久の頃で、経久が没したのは天文10年11月、経久の後を継いだのは、孫の尼子晴久、老練で知勇兼備の経久亡き後の尼子氏は、陰りが見え衰退へとひた走っているようだった。

幸盛が成人した頃は、晴久も没して嫡男の義久が家督相続していたが、その頃は毛利元就が陶晴賢を厳島の戦いで撃破して台頭し始めていた頃、永禄9年11月、元就の軍勢が義久の籠る月山富田城を包囲、義久は元就に降伏して城を明け渡した。これが幸盛の最初の苦難であった。

これ以降、幸盛は尼子再興ために苦難の道を歩み始める。幸盛は、尼子家再興のため、尼子誠久の遺児を擁立を画策、誠久は毛利への内通を疑われ、晴久に殺害され、その遺児は京に逃れていて、東福寺で僧侶となっていた。その遺児を還俗させて勝久と名乗らせ尼子家再興の旗頭とした。

■山中(鹿介)幸盛の肖像画
SNHRRN [Public domain], via Wikimedia Commons

幸盛は勝久を連れて尼子氏の旧領に入り、そして幸盛は、元就に本領安堵で元就に降っていた尼子旧臣に声をかけた。元就が北九州へ遠征している隙をつき、永禄12年4月、幸盛は動き出し幸盛の誘いに応じた尼子旧臣を率いて蜂起、更に元就の台頭で領国を奪われ始めた山名祐豊が幸盛を支援、これにより元就を悩ませた。

元就は畿内に勢力を拡大していた織田信長に、祐豊の背後を攻めてくれるように要請、この要請を受けた信長は木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を派遣して、祐豊の領国を攻めさせた。これにより祐豊の支援は途絶える。それでも尼子家再興を幸盛は諦めない。

永禄12年6月、幸盛は島根半島に上陸、近くの忠山砦を占領、尼子旧臣に檄を飛ばして尼子旧臣3000を集結させて多賀元龍の籠る新山城を攻略、宍道湖の北岸に位置する末次に末次城を築き、ここを拠点に山陰地方の各地を転戦、勢力を拡大、こうした動きに元就は北九州から毛利輝元、吉川元春、小早川隆景撤収し、幸盛ら尼子旧臣の反乱を鎮圧した。

■ 末次城 (松江城)

一方、再び幸盛は同年6月に尼子再興を開始する。中海の重要拠点である、十神山城、末次城など出雲と伯耆に城を次々と攻略、再び尼子家再興に動き出し、山陰地方に勢力を拡大したのである。同年7月には、かつての尼子氏の本拠月山富田城の攻略にとりかかる。知恵のついた幸盛は力攻めではなく、兵糧の少ない月山富田城を兵糧攻めにし、当初は尼子方が優勢していた。だが、石見で尼子再興に動いていた尼子軍が毛利軍に攻められ劣勢になり、幸盛は月山富田城を一旦中止、石見へ救援にむかう。

そして幸盛は原手合戦で毛利軍を撃破すると、尼子方は勢いを回復、その後、出雲で16の城を攻略、勢力を6000を動員する領地を拡大し、更に尼子旧臣を味方につけた幸盛は、出雲一円を支配、伯耆においても末吉城の神西元綱などを味方につけ、伯耆日野一円を支配する日野衆も味方にすると、伯耆全土制圧した。更に幸盛は因幡、備後、備中、美作へと勢力を拡大、そんな最中で九州の大友宗麟の支援で大内輝弘が大内家再興に周防で動き出し、元就は相次ぐ反乱に苦慮し、再び九州から帰還、周防で反乱する大内輝弘を自刃させると、続けて幸盛率いる尼子再興軍が決戦の地と決め布陣する布部にて尼子軍と毛利軍は布部山合戦となった。

戦いは毛利軍が勝利、幸盛は殿(しんがり)となり軍の崩壊を防ぎ、末次城に帰還した。この戦いに敗北した事で、尼子再興軍は一時衰退し、再び盛り返すが元亀2年には尼子再興軍は一掃されてしまうのである。再び幸盛が尼子再興に動くのは元亀4年、但馬から因幡に入った幸盛は因幡を足掛かりに、伯耆、出雲へ進攻する考えであった。この時、因幡を支配していたのは、毛利方の支援を受け、因幡国主の山名豊数を倒した武田高信であった。

そして天正元年、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで、武田に決定な打撃を与えるた幸盛は豊数の弟の山名豊国の山名再興軍と連携、因幡で尼子再興を再び再開し、1000の軍勢で5000の武田高信の軍勢が籠る鳥取城を奪取、幸盛は豊国に鳥取城を任せ、幸盛ら尼子再興軍は私部城を本拠として、東因幡一帯を幸盛は支配下におくまでに勢力を拡大した。だが同年11月下旬、山名豊国が毛利方に寝返ってしまい、鳥取城が毛利方に奪われた事で因幡情勢が不安定になり、仕方なく幸盛は備前の浦上氏や九州の大友宗麟、織田信長の重臣の柴田勝家らに連絡をとり、反毛利方との連携を取り、体制の建て直しを図る。

天正3年6月に幸盛は因幡若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点を私部城から若桜鬼ヶ城に拠点を移し、私部城には亀井茲矩を入れ因幡から播磨に抜けて京へと入るルートを確保した。そんな最中、元就亡き後の毛利を支える吉川元春と小早川隆景の世にいう毛利両川が、軍勢を率いて、若桜鬼ヶ城へ攻めて来て、浦上氏の衰退、美作の三浦氏の毛利への降伏で、因幡の幸盛率いる尼子再興軍は孤立化してしまい、天正4年5月頃、幸盛ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を明け渡し、因幡から撤退、2度目の幸盛による尼子再興は失敗に終わった。

因幡より撤退した幸盛は織田信長を頼り京に上り、信長に面会、信長から「良き男」と称され「四十里鹿毛」という騎馬を賜り、これより信長のもとで尼子再興を開始、当初は明智光秀の丹波攻略に参戦して功績をあげ、信長の嫡男の信忠の指揮する松永久秀の籠る大和信貴山城攻めに参戦、久秀配下の河合将監を討ち取る功績上げ、天正5年10月、信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ派遣されると秀吉傘下で播磨へと向かい、同年12月、毛利方の上月城を秀吉が攻略すると主君の尼子勝久とともに幸盛は上月城に入り、この城を拠点に3度目の尼子再興を開始させた。

■ 織田信長像

上月城は小城であったが、備前、美作、播磨の国境に位置する重要な拠点で、城番となった幸盛は美作国衆の懐柔を担当する事なった。天正6年2月毛利方の宇喜多軍3000を率いる真壁次郎四郎が、上月城に攻めて来たが、幸盛は800軍勢で宇喜多軍に夜討ちをかけ、真壁次郎四郎を討ち取り、宇喜多軍に勝利した。

同年2月中旬、播磨三木城の別所長治が毛利方に寝返り、信長と交戦状態だった毛利輝元は、これを機に播磨へ進攻、同年5月に上月城を包囲した。この報せを受けた秀吉は荒木村重と共に上月城へ援軍したが、高倉山合戦で毛利に敗れた事と信長から三木城攻略を優先するよう命じられた事から書写山まで撤退、これより上月城は孤立する事なる。

およそ2ヶ月間の籠城戦の末、尼子再興軍は同年7月に毛利に降伏、尼子勝久と勝久の弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕りとなり人質、その他の多くの者は処刑された。幸盛は備中松山城にいた輝元のもとへ送られる事となったのだが、その途上で毛利家臣の福間元明に謀殺されてしまった。享年34歳、裏切りが常の戦国の世にあって、主家の尼子再興に生涯をかけた山中鹿介幸盛という人物は、まさに忠臣、忠義の士と言えよう。

※写真はイメージです。

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