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山上憶良とは?

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奈良時代初期の歌人として有名な山上憶良(やまのうえのおくら)。人生経験を経て人間や人生や自然に対する考え方をどのように変えていったかを憶測してみたいと思います。

目次

遣唐使

山上憶良は、臣籍降下した旧皇族に系譜を有する山上氏と呼ばれる皇別氏族の出身と言われている。皇別氏族といっても、上流階級ではあるが貴族の中での位は低かった。

西暦702年の遣唐使のメンバーに選ばれた。
遣唐使の長である執節使であった粟田真人が、同族といえる山上憶良を推挙したからであるという説がる。粟田真人は唐の律令制度を参考にした制度を日本に導入することに功績のあった人物である。粟田真人は執節使としての管理業務にも多忙であったため、本来の目的である律令制度の導入ワークの助手として山上憶良を身近に置きたかったのかもしれない。

このチャンスを利用して、唐の現地において儒学や仏教の学習にも励んだと言われている。

律令制度

ところで唐王朝は、純粋の漢民族から成っているわけではなく、律令制度を創り上げた隋王朝も同様であった。両王朝共、かっては蛮族と言われていた民族の血筋も入っている。
重臣についても、例えば、安史の乱を起こした唐の軍人安禄山は、父がソグド人であり、母が突厥(トルコ人の祖先)の出であったという。このような国においては、人材を登用するには、出自や血筋にこだわらない科挙などの制度を必要とした。
戦乱の多い環境においては、人材を正しく登用することは国の死活問題であったため、出自が貴族でない人材も出世できるシステムが造られていた。

日本は、海に守られ外国の侵入が少なかったため、聖徳太子による十七条の憲法の制定などがあったにもかかわらず、そして唐の律令制度の導入後も、豪族や貴族としてのベースを有していない人物に対する開放的な登用はなかったと言える。
人材の開放的な登用が実現されたのは明治維新以後であろう。

山上憶良は、唐の制度を学んでいるうちに、日本は出自や血筋に重きを置き過ぎていることに気が付いたのであろう。また自身が下級貴族であったことも原因していると思う。

大伴旅人

唐から戻った後、山上憶良はなかなか出世できなかった。それでも、遣唐使としての功績によって正六位下から従五位下に昇叙され、伯耆守、および首皇子(後の聖武天皇)の侍講を経て、筑前守に任命され大宰師の大伴旅人と懇意になっていった。

大伴旅人は、山上憶良より少し年下であったが、大和王権の創立に大きく寄与した軍事の名門に生まれ、山上憶良より遥かに高位にあった。大伴旅人は、愛妻家であるなど心優しい面があり、山上憶良は、そこに好意を持ったのであろう。両者共、歌を詠むことを楽しみにしていて、二人の間の交際は、上司部下の域を超えていた。

山上憶良と歌

山上憶良は、貧窮問答歌や防人の歌や子供の歌など、他の歌人とは異なる対象についての歌も万葉集に多くを遺している。なかでも子供の歌は率直な良い歌だと感じます。
万葉集の選者と考えられる大伴家持は、大伴旅人の息子であったので、広いジャンルにわたる山上憶良の歌を少なからず選んだのかもしれない。
山上憶良は、高位には出世しなかったものの、常に周囲の人々がサポートしてくれる環境の中で良い一生を終えたように感じます。

※画像はイメージです

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