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唐大帝国から日本へ~神 楊貴妃伝説

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源義経やマリー・アントワネットなど、歴史上の有名人につきものの生存説。中国古代四大美女のひとり、楊貴妃にも生存説がある。それも、生き延びて「日本に流れ着いていた」という伝説が――。

目次

楊貴妃は日本で死んだ?

中国には『四大美女』といわれる経国の美女が四人いる。西施、王昭君、貂蝉、そして楊貴妃。ほかの三人にはあまりなじみがないかも知れないが、楊貴妃の名を知らない人はいないだろう。「一笑すれば百媚生ず」とたたえられた古代中国の絶世の美女だ。
おそらく中国史上もっとも有名な女性である楊貴妃に、なんと「日本へやってきて死んだ」という漂着伝説があることはご存知だろうか。
それどころか、なんと楊貴妃が海を越えてたどり着いたとされる山口県長門市にある寺院・二尊院には、花崗岩で造られた『楊貴妃の墓』まで建っている。

さらにこの二尊院に伝わる『二尊院由来書』という、安永5年(1766年)に恵学という、当時の住職がまとめたものには、なんとこの二尊院じたいが「楊貴妃が漂着して死去し、その追善のために当寺を建立した」と記されている。そもそも建立の理由が「楊貴妃」なのである。また、二尊院には「楊貴妃は空艫舟(うつろぶね)に乗って当地に漂着したが、まもなく死んでしまった。里人が哀れに思って当寺の境内に埋葬した」とする古文書も残されている。
二尊院の来歴について、ふたつの書でいささか内容に違いはあるが、年代の異なる二書に「楊貴妃がやってきてこの地で死んだ」と記されている――楊貴妃が生きていたのは唐の時代、つまり遣唐使が中国と日本とを行き来していた時代だ。

彼女が流れ着いたとされる岬の西側は、なんとその名も「唐渡口」と呼ばれているという。
楊貴妃には中国にも生存説がある。 玄宗皇帝が楊貴妃の墓を改装しようとした際、墓のなかに亡骸はなく、彼女が胸に載せていた香袋だけが残っていたと『新唐書』に記されているのである。
唐の名君・玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃は、そもそもの名は楊玉環といった。彼女はもとは玄宗とその妃である武恵妃の息子、寿王(第十八子)の妃であったものの玄宗に見初められ、後宮に入ることとなる。このとき玄宗56歳、楊貴妃22歳。皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、5年後宮中の太真宮に移り住んで以降、貴妃(高位の側室の号のひとつ)でありながら皇后のような扱いを受けたという。楊貴妃の美しさ、玄宗との甘いロマンスや逸話は、白居易の『長恨歌』にも残されている。

その後、彼女は756年に起こった安禄山の乱により馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で高力士により縊死させられたことになっている。楊貴妃を愛するあまり玄宗が政治を顧みなくなったこと、一族の出世と専横によって国は乱れ「傾国の美女」と呼ばれたが、彼女自身は政治に口を出すことはなかったという。乱を起こした安禄山も、彼女が死んだと知ると涙を流したといわれている。
大帝国・唐の最盛期を築いた名君玄宗は、かつての権力を失い宮殿に軟禁されたまま世を去った。楊貴妃の死から6年後のことだった。

神の乗り物 虚舟

さて――馬嵬で命を落としたはずの楊貴妃が生き延び、遣唐使の助けを得て日本へ渡り、山口県にたどり着いたという、楊貴妃漂着伝説。このとき彼女が乗っていたとされる「空艫舟」とは、果たしてどのようなものなのか。
空艫舟とは、「うつろぶね」と読み、木をくり抜いて造られた粗末な小舟のことなのだという。しかし、日本には虚舟、うつぼ舟という、よく似た音の響きを持つ舟の話が伝わっている。虚舟は日本各地の民族伝承に登場し、折口信夫や柳田國男も記録や考察を残している。虚舟伝説でもっとも有名なのは享和3年(1803年)に、常陸国(現在の茨城県)に流れ着いたとされるものである。この虚舟は窓のある鉄でできた丸っこい形をした不思議な舟で、なんと中には箱を持った異国の女性が乗っていたという。

ほかにも、対馬(現在の長崎県)にも「高貴な女性が乗った虚舟」が漂着するという伝説がある。上対馬に流れ着いた虚舟には、「はなみごぜ(花宮御前)」という高貴な女性が財宝を持って流れ着いたが村人に殺され宝を奪われてしまったという話が、少し離れた場所にある豊玉町には高貴な姫とその侍女たちが流れ着き、同じく村人が姫たちを殺し宝物を奪った、という話が残されている。

もちろん、空艫舟はあくまで「木をくり抜いて造られた粗末な舟」のことであり、後述した虚舟とは単に音が似ているに過ぎない。
しかしどちらもよく似た音を持ち、話が伝わる場所はバラバラながら、「中には異国から漂着した高貴な女性が乗っている」という、奇妙な類似点がある。

柳田國男は『折口信夫全集』の第三巻に収録されている「霊魂の話」で、虚舟・うつろ舟は「たまのいれもの」、「神の乗り物」だったのではないかと述べ、折口信夫は神がこの世の姿になるまでの間入っている必要がある「いれもの」だったのではないか、という説を唱えている。

じっさい日本の『神』だった?楊貴妃

そして、なんと楊貴妃は「楊貴妃は熱田の神の化身である」という奇妙な話があるのだ。
鎌倉時代の『渓嵐拾葉集』には「熱田神宮に楊貴妃の墓がある」と記されているという。なぜそのような話が生まれたのか?
中国には「蓬莱」という、不老不死の秘薬を持つ仙人たちが暮らす山の伝説がある。日本の熱田こそがその蓬莱である、という話があるのだ。

室町時代の学者である清原宣賢は、「玄宗が日本を征服しようとしたため、熱田明神が美女となって玄宗の心を惑わせた。その証拠にこの神社には春敲門という門がある」と『長恨歌抄』に記しているという。楊貴妃の宮殿にも、春敲門というまったく同じ名を持つ門が存在したという。熱田神宮の春敲門は戦災で焼けてしまい、残念ながら現存していない。小野道風筆とされる「春敲門」の扁額が残されているばかりだ。

日本に残された楊貴妃をめぐる伝説は、すべてがぴたりとつながっているわけではない。しかし、個々のエピソードは想像を掻き立てるものばかりで、どれもが少しずつ重なり合っている。
楊貴妃の墓がある山口県長門市には『玉仙閣』という宿があり、なんと楊貴妃が入っていた唐の浴槽を再現した「貴妃湯」という風呂がある。彼女がたどり着いたとされる油谷湾からは30kmほど離れた場所にあるが、「楊貴妃漂着伝説」のロマンに想いを馳せながら、ゆっくりと温泉に浸かってみるのも面白いかも知れない。

featured image:Chōbunsai Eishi, Public domain, via Wikimedia Commons

 

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