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鶴崎城主名代の吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)

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強敵相手に真っ向勝負を挑み薩摩男を手玉にとった尼武者、鶴崎城主名代の吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)。

天正14年(1586年)11月島津軍を迎え討つ鶴崎城は風前の灯でありました。
鶴崎城主の吉岡紀増(よしおかのります)は、主大友宗麟の命令で主力を引き連れ、大友氏本拠臼杵城に入ってしまっていた。

城というより館のような鶴崎城は、初めから見捨てられたも同然で、城主不在なうえに戦える兵士の数も僅か、残るは女子供と百姓兵ばかり戦う前から意気沮喪(いきそそう)していました。
そんな一同を叱咤激励したのが、城主名代の妙林尼です。

「豊薩軍記」や「大友興廃記」などの戦記は、妙林尼は城主吉岡紀増の祖母とも母ともいわれ、年齢30代から5~60代。いずれにしても夫に先立たれた尼の身です。
このときの妙林尼は「鎖鉢巻きをむずとしめ、着込みのうえに羽織を着て長刀携へたり」という勇ましいいでたちで、侍女たちもみな同様に括り袴に鉢巻を締め太刀や槍を掻いこんで従いました。

女たちのこの姿を見て男たちも奮い立ち、先頭に立った妙林尼は城廻りの堀をさらに深くし、堀にめぐらせた柵と柵の間に落とし穴を幾つも作り、矢面には、ありったけの鉄砲が並べられ、用意万端整ったところで、いよいよその日がきました。

3000の島津軍を率いるのは、島津きっての猛将の伊集院美作守、野村備中守、白浜周防守たち。
「たかが尼が大将の小城」とみくびって、何の警戒もなく、にわか拵えの柵を壊して突っ込んで・・・と、たちまち人馬もろとも落とし穴にはまって寄手は大混乱に陥ります。

そこへ妙林尼の合図で280挺の鉄砲が火を吹きます。至近距離から発砲、面白いように命中。
落とし穴戦法にこりた島津軍は、今度は牛馬を先に立て、穴の所在を確かめながらじりじりと進んでいきますが、これも動きが鈍く狙い撃ちしやすいです。

こうした攻防戦が16回もくりかえされ、そのつど城方は寄手を退けましたが、しかし小城のこと、城方はついに矢弾も尽き兵糧もなくなって、島津軍の伊集院たちは敵ながら天晴れ、殺すには惜しいと降伏をすすめます。妙林尼もこれ以上戦って城兵や女子供を死なせるのも憐れと考え、伊集院らの条件をすっぽり呑んで城を明け渡しました。

こうして鶴崎城は落ちたが、後日談があります。
敗軍の将にもかかわらず妙林尼は、伊集院たちが城下に用意した邸で囚われ人らしからぬ暮らしを楽しんだそうです。

折りにふれて城中の伊集院たちを邸に招いて、自らご馳走し括り袴を脱いで美しく装った侍女たちに酌をさせ、酔えばともに今様をうたい下手な舞を舞っては心から笑い合い、両者の間には奇妙な友情が芽生え、妙林尼の年齢によって異なるが、それは恋愛か母と子の情愛にも似た感情だったようです。

明けて天正15年、いよいよ豊臣秀吉が大軍を率いて島津征伐に乗り込んで来るというので伊集院たちは、薩摩に帰国せねばならない、このとき妙林尼が是非とも一緒に連れて行って欲しいと頼むと、伊集院たちは、やれ馬よ輿よと騒ぎ立て、このあたり薩摩男の純情がほうふつとします。

そして出立の日、妙林尼と侍女たちは首途の祝い酒と称して伊集院たち城兵全員をしたたかに酔わせ、途中、かねてしめし合わせていて手兵に襲撃させます。
すっかり気を許した島津兵は抵抗するまもなく、伊集院と白浜は討死、野村も深手を負い、指揮する者を失った兵は薩摩を目指して敗走。妙林尼はこのとき挙げた島津兵の首63を臼杵城に届け、大友宗麟から「尼の身として希代の忠節古今の絶類なり」とほめそやしました。息子(或いは孫)紀増にも恩賞があったそうです。

どの軍記も妙林尼を知略、胆力に優れているだけでなく、主家に忠節を貫いた烈婦と絶賛しています。

※画像はイメージです。

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