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平均寿命は驚愕の22歳!?吉原に沈んだ哀しき遊女の実態

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日本には花街と呼ばれる遊郭街であり、そこでは三千人から五千人の遊女が生活していました。
華やかなイメージとは裏腹に年季明けを待たず亡くなる者が多く、平均寿命はなんと22歳。

江戸時代の平均寿命が50歳、女性は20代後半だった事を踏まえても、短命と言わざるえません。
今回は江戸最大の花街・吉原で暮らす遊女たちの実態をご紹介します。

目次

江戸幕府と共に歩んだ吉原遊郭の歴史

吉原遊郭の始まりは江戸時代初期。
徳川家康が慶長8年(西暦1603年)に江戸幕府を開いたのをきっかけに、江戸は急激な発展を遂げていきます。
当時の男女比は酷く偏っており、総人口の三分の二が男性で占められていました。

これは戦乱の世が終わり、仕事にあぶれた浪人たちが江戸に集まった背景が影響しています。
江戸の都市整備が進む一方、浪人たちを当て込んだ遊女屋は度重なる移転を余儀なくされました。
これでは商売にならないと声を上げたのが、ある遊女屋の主人・庄司甚右衛門。

元和3年(西暦1617年)、甚右衛門の陳情により江戸初の花街「葭原」が誕生しました。これが吉原の前身です。
ちなみに吉原の名前は、甚右衛門が供出した江戸日本橋付近の土地に生い茂っていた、植物のヨシからとられています。
その後江戸の拡大とともに吉原の規模も広がり、明暦の大火ののち、浅草寺裏の日本堤に移転しました。
移転後は新吉原、移転前は元吉原と名称が使い分けられてるのがポイントです。

Kusakabe Kimbei (日下部 金幣) (1841 – 1934), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

花魁の語源は禿の口癖「おいらのねえさん」

吉原遊郭における最高位の遊女は、花よりさきがけると書いて花魁と呼ばれました。
彼女たちは贅沢が許された高級娼婦であり、美貌に恵まれてるのは勿論のこと、三味線・囲碁・将棋などの芸事を極め、古典や茶道を嗜んでいるのが条件とされました。

花魁は吉原成立当時から存在しましたが、『吉原細見』によればその数はたった3人。
その後寛永20年(西暦1643年)の18人をピークに減少を続け、宝暦の終盤には消滅してしまいました。
花魁の語源は禿や新造たちが姉女郎の話をする際の口癖、「おいらのねえさん」が訛ったものとする説が有力です。

売られたのは地方の農村の娘だけではない?

吉原というとどうしても貧しい百姓の娘が売られてくるイメージが付き物ですが、実状はそうとも限りません。
口減らしで売られてくる娘もいましたが、放蕩者の父親や夫の借金のカタに大門をくぐる、江戸市中の娘も大勢しました。
この娘たちにもランクがあり、最上位は貧しい武家の娘。
落剝してもお武家様の血筋ということで、その他の娘たちとは違い、好待遇を受けていたようです。
また、遊郭で生を享けそのまま遊女になる娘もいました。彼女たちは外の世界を知らず、吉原の中だけで育ちます。

大前提として、下級遊女は子を産む事を許されません。故に孕んでしまった場合は、鬼灯を煎じて飲む、あるいは鬼灯の根を女陰に突っ込んで掻き出すなどして堕胎しました。
しかし上級の遊女は特別扱いされ、廓によっては子供を産むことが許可されていたのです。

Kitagawa Utamaro, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

デビュー前に猛特訓、性器にも格付けが?

売られた娘はまず最初に性器を点検され、女陰の形状や色、具合によって格付けされます。
遊女の性器は全三種に分けられました。
最も優れた女性器が上品(じょうぼん)、並が中品(ちゅうぼん)、最下位が下品(げぼん)。
上品は肛門から陰核までの長さが8センチ以上、下品は8センチ以下。前者は男が楽に挿入できるため、名器と評されました。この格付けは実際に遊郭主が行っていたそうです。

身も蓋もない言い方をすれば、遊女全員が遊郭主のお手付きだったのです。
さらに遊女の等級は二種あり、将来有望な太夫候補・天神とそれ以外の端が存在しました。
稼ぎ頭として期待を背負った天神は、幼い頃より徹底的に芸事を仕込まれます。
対する端は性技を叩き込まれ、単価の安い客を大勢とらされていました。廓も客商売である為、回転率を上げるのが課題だったんでしょうね。

花魁道中で有名な外八文字の歩行方法も、括約筋を鍛える効果が見込まれていました。
さらに性技のプロフェッショナルたる遊女には、水揚げ際に痛がったりいやがったりしないように、床師と呼ばれる調教師が就いたといいます。

現代ではフェラチオも一般化しましたが、当時の価値観に照らせば、尺八も遊女の性技の一種でした。
そして遊女の間には、絶頂するのを恥じる風潮がありました。彼女たちはオーガズムに達する事を「気を遣る」と表現し、気を遣ったら妊娠すると信じ込んでいたのです。
故に行為の際は大袈裟に喘いで絶頂したふりをする、会陰を指圧して下腹を押さえるなどし、性的興奮を鎮めていました。

恐ろしい遊女の折檻

高級遊女になれば私室を与えられますが、それ以外の遊女は雑魚寝。
食事は大所帯で食べる上、献立は貧しいもの。白米・味噌汁・漬物がほぼ全てで、昨晩の客の残り物をとっておき、摘まむ遊女もいたといいます。
そんな劣悪な環境ですから、足抜けを企む遊女も大勢いました。とはいえ成功率は低く、連れ戻されたら過酷な折檻が待っています。

遊郭には行燈部屋と呼ばれる小部屋があり、ここが仕置き部屋として使われました。
酷寒の真冬に全裸で木に縛り付け放置する、食事を与えず眠らせない、先端の割れた唐竹で全身を叩くなどは序の口。
両手足を縄で縛り上げ天井に吊るす「釣り吊り」、葉や草を燻した煙を団扇で吹き寄せる「燻し責め」、呼吸困難に陥るまで全身をくすぐり続ける「くすぐり責め」など、遊郭独自の仕置きもたくさん記録されています。燻し責めとくすぐり責めは遊女の体に傷を付けず、商品価値を下げないわりに死ぬほど苦しいので、特に効果的とされていました。
余談ながら釣り吊りは遊郭主自ら、それ以外の折檻は女将が主導したそうです。

幕末の新吉原では、豊平と呼ばれる最高級の遊女が、同じ廓の遊女15人と共に店に火付けした事件が起きています。
豊平は13歳で遊女になってから14年間懸命に働き、年季明けを目前に控えていました。
しか稼ぎ頭を失うのを恐れた遊郭主の佐吉が、足抜けに失敗した遊女・玉芝に、「豊平に唆されたと言え」と吹き込みます。
妹分の足抜けの黒幕に仕立て上げられた豊平は、同胞たちの前で激しい暴行を加えられた上、年季を二年延ばされてしまいました。
のちに玉芝から真相を聞いた豊平は激怒し、自分が働く遊郭に放火したのです。

Torii Kiyomitsu 鳥居清満 (1735 – 1785) & Torii Kiyohiro 鳥居清広 (? – 1776 ?), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

遊女の平均寿命は22歳、死体は投げ込み寺へ

不衛生な環境に粗末な食事、過酷な肉体労働に厳しい折檻・・・このような劣悪な環境に置かれていたら、長生きはとても不可能。しかも昼見世と夜見世が存在し、泊まり客を送り出す為朝5時に起床するなど、片時たりとも気が休まる暇がありませんでした。

死因の上位に挙げられるのは性病や結核。
当時は正しい予防知識や治療法が確立しておらず、伝染病を患ったと見なされた遊女は狭い部屋に隔離され、ろくに食事も与えられず非業の死を遂げました。
また、折檻で命を落とす遊女も多くいました。

吉原は30歳を年季明けに定めていましたが、遊女たちの大半がそれより十年早く死亡したのです。
遊女の遺体は江戸市内の浄閑寺、通称投げ込み寺に運ばれ、穴にまとめて捨てられました。一日40体の遺体が運ばれてくる事もあったそうです。

彼女たちの多くは無縁仏で引き取り手がない上、自殺や心中、折檻死などで店に迷惑をかけた場合は「遊女」「売女」と戒名すらも貶められたというのですから、この世の無常を感じざるえません。

featured image:Torii Kiyomitsu 鳥居清満 (1735 – 1785) & Torii Kiyohiro 鳥居清広 (? – 1776 ?), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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