妖怪が迎える「死」とはどんなものだろう?
フィクションの世界だと不思議な力で祓われた妖怪の身体が散り散りになって消えるが、語り継がれる日本伝承としての妖怪たちの「最期」とは。我々でいう所のどんな概念と同義なのか。「妖怪誕生の瞬間」や「科学の発達した現代の妖怪像」に触れながら考察していこうと思う。
妖怪の定義
妖怪とは「人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと(Wikipedia参照)」とある。科学が発達していなかった昔は台風や津波は海に住む妖怪が身動ぎをして起こしていたし、やまびこだってその名の妖怪が山にいて返事をしているのだと考えられていた。
当時の知識で理解できなかった疑問に先人たちは妖怪として名と実体を与え、畏怖と教訓を添え次代へと語って継ぐように聞かせた。では、今はどうだろう。科学が発達し数ある不可思議現象もメカニズムが解明されている現代は、かつて畏怖された妖怪たちにどのような影響を及ぼしているか。次章で触れる。
今昔で見える妖怪の苦心
子供の頃、トラウマになった怖いアニメで観た。黄昏時から夜にかけて、迷子になった人を攫って地獄へ連れて行く鬼の話で、特に印象に残ったのが鬼から友人を助けた主人公の「昔はどの道も夜は暗くて迷いやすかったけど、最近は街灯が沢山あって夜でも明るいから迷う人が少なくなった。だから鬼も中々人を攫えなくなった」という言葉。
夜道で迷子になった人間が消えるという異常現象から生まれた鬼は、人間が道に迷わなくなった現代ではそもそも目の前に姿を現さない。不可思議な現象が具現している妖怪は、現象のメカニズムが解明されてしまったり根本的にその現象が成り立たなくなると一気に存在しづらくなるようだ。実際、同じトイレを縄張りにする妖怪でも、「トイレの花子さん」はまだ聞くが便器から手を伸ばし引きずり込む「赤紙青紙」は学校から汲み取り式便所が撤去されてからあまり聞かなくなっている。
妖怪にとっての死とは
人間であれば心臓が止まれば死であるが、妖怪はどうだろう。刺す心臓は無い、本体は奇怪な現象そのものだから。では、その本体たる現象が奇怪じゃなくなればどうだろう?海が荒れるのは発達した熱帯低気圧で進路も予測できる、となれば、台風を恐れても海で暴れる妖怪を恐れる人はいなくなる。
恐れなければ語り継がれる事もなくなり、その存在を知る人がいなくなれば、そんな妖怪元から存在しなかったことにならないだろうか。誰の記憶からも忘れ去られたその時、それは妖怪にとっての死と同義とは言えないだろうか。もしかすると今までも、科学や技術の進歩に抗いきれず、語られなくなり、文字通り人知れず死を迎えた妖怪が在るのかもしれない。
ならば妖怪は滅ぶのか
金縛りにも科学的な証明が裏付けられた昨今、妖怪という存在は衰退の一途を辿るのか、と問われればそんなことは無い。前章でややこしい触れ方をしてしまったが、現象のメカニズムを解明した段階ではまだ無力化するだけで妖怪は死なない。要はその後、語り継がれず忘れ去られると死ぬのだ。
元々畏怖の念を込めて語られていた妖怪達だから怖がられなければ話題に名が上がらず死にやすい、と言えばそうだが、それでも「昔は海に妖怪がいて、ソイツらが暴れて海を荒らしたって言われてたのよ」と子供に言い聞かせるだけで海の妖怪は生き長らえる。先人たちが残した妖怪の図解文献も、妖怪たちの延命に貢献している。
花子さんもただトイレに佇む怖いだけの存在ではなく、時代に合わせて随分とビジュアルを変えている。電話をかけながら迫って来るメリーさんだって、今はコメディ色の強い派生が散見される。途絶えさせてはならない伝承として、畏怖とは別に存在して欲しいという浪漫として、あるいは面白おかしく創作として、込められるものは未知への畏怖でなくともいい、名を出し語り継ぐことで妖怪たちは半永久的に生き続けるのである。
現代を生きる強かな妖怪たち
妖怪が滅ばないもう一つの根拠が「全ての奇怪な現象が解明される事は無い」という点。日々進化する科学技術は様々な現象の解明に役立っているが、一つ技術が進歩する度一つ、あるいは複数、新たな理解を超える異常が発見される。それらが人間に危害を加える程の危険を孕み恐怖されれば、後は想像がつくだろう。
昨今新たに生まれている妖怪は手強い。圧倒的な殺傷力に加え語り手の設定や話の中に矛盾が生じにくくなっている。道を照らされても僅かな暗闇から此方を引きずり込もうとする狡猾さと強かさを以て生き続ける妖怪を、畏怖と浪漫を感じつつ考察するのも乙だろう。
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