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江戸・明治の怪談ブームを解説!怖いだけじゃない幽霊画の魅力とは

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皆さんは江戸時代から明治にかけ日本で流行した幽霊画をご存じですか?
葛飾北斎・歌川国芳・月岡芳年ら数多くの巨匠が手がけた幽霊画は、その多彩なテーマやおどろおどろしい画風でもって、一世を風靡しました。今回は知られざる幽霊画の歴史と魅力をご紹介していきます。

目次

足のない幽霊は円山応挙発祥?幽霊画の歴史

幽霊画の歴史を語る上で外せないのが円山応挙(享保18年~寛政7年)。
享保18年(1733年)貧しい農家の次男として産声を上げた応挙は幼くして寺に預けられたのち、十代後半で都に上り、狩野探幽の影響を色濃く受け継ぐ鶴沢派の画家・石田幽汀に弟子入りします。

円山応挙の幽霊画の代表作とされているのが『お雪の幻』。
ざんばらに乱れた長い黒髪、切れ長の一重瞼に瓜実顔が印象的な美女が、白い着物の胸元に手を添えてたたずんでいる絵です。ダヴィンチの『モナリザ』に通じる妖しい微笑みに、心を掴まれた人も多いのではないでしょうか。
言われなければ気付かないかもしれませんが、よく見れば下半身が省略されており、彼女……お雪がこの世のものではないことが察せられます。

応挙が幽霊画を多く手がけるようになった経緯としては、下記の逸話が伝えられています。
絵師を志した若き日、応挙は妻を娶ります。しかし幸せな生活は長く続かず、伴侶に先立たれてしまいました。
ある時応挙の夢に死んだ妻が現れました。彼女には足がなく、宙を漂っていたといいます。
目が覚めた応挙は夢をもとに幽霊画を描き、以降足のない幽霊が世間に定着していったのです。
ともあれ江戸時代初期の幽霊画には普通に足があったので、幽霊と人を見分けるわかりやすい記号として採用された、というのが実状に近いかもしれません。

応挙が幽霊の足を省略した理由として、応挙真筆として久渡寺に保管されている絵が「反魂香之図」と題されていることから、下半身が煙に覆われていたのではと指摘する人もいます。
反魂香とは漢の武帝に纏わる故事に登場する、死者の魂を呼び寄せることができるお香。
幽霊に足が存在しないのではなく、出現時にお香の煙や霧をまとっているから見えないだけとする解釈は説得力がありますね。

■ 円山応挙「お雪の幻」
Maruyama Ōkyo, Public domain, via Wikimedia Commons

幽霊画ブーム到来!怪談好きな江戸の人々

鎌倉時代の『北野天神縁起絵巻』に描かれた菅原道真の怨霊など、江戸時代以前にも幽霊や妖怪を題材にした絵はありましたが、本格的なブームを迎えるのは江戸時代。

幽霊画の流行と切り離せないのが、百物語にあやかる怪談の隆盛。百物語は武士の肝試しを起源とする催しで、怪談を話せる人が寄り集まり、一人一話語り終える都度蝋燭を消していき、百本目が消えると同時に怪異が起きると信じられてきました。
こんな酔狂な催しをする位ですから、主催者は経済的に余裕のある商家や武家の主人と見るのが妥当ですね。
とはいえ、殺風景な座敷に何十人も犇めいていては興ざめ。
そこで江戸の粋人を気取る彼等は、百物語のお膳立てを兼ね、会場に飾る幽霊画を注文したのです。

一人がはじめれば我も我もと続くのが世のならいで、「アレよりもっと怖いものを、凄いものを」と要求はエスカレートしていきました。恐ろしい幽霊画が、蝋燭の光にぼんやり浮かび上がる光景を想像してください。あるのとないのとでは怖さが段違いではないでしょうか?
ちなみに百物語の小道具として好まれた幽霊画には、『東海道四谷怪談』のお岩さんや、『番町皿屋敷』のお菊さんがよく取り上げられたそうです。

■ 「北野天神縁起 巻六」宮中清涼殿に雷を落とす雷神
Unknown artistUnknown artist, Public domain, via Wikimedia Commons

怪異物の名作続々!百鬼夜行のはじまり

幽霊や妖怪を扱った浮世絵は怪異物と呼ばれ、葛飾北斎・歌川国芳・月岡芳年ら、錚々たる絵師が名作を世に送り出しました。
江戸時代には鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』『番町皿屋敷』で怪異物の人気が確立され、女子供向けの絵草紙に、ユニークな幽霊や妖怪が登場するようになります。浮世絵の版画には玩具絵と呼ばれるジャンルがあり、サイコロを振って上がりを目指す絵双六やかるたが含まれましたが、妖怪はここでも大人気。

都市文化の成熟に従い、江戸の盛り場では見世物や寄席が営まれ、四代目林家正蔵ら怪談咄が十八番の落語家が誕生します。この時も壇上には幽霊画が掛けられ、桟敷を埋める客を湧かせました。
浮世絵の巨匠・葛飾北斎もまた、百物語がテーマの連作を手がけています。

北斎の描く妖怪たちはどこかコミカルで人間臭い表情がチャーミング。
片や『こはだ小平二』の白骨化した怨霊の生々しさ、『笑ひはんにゃ』において子供の生首を掴んで食べる鬼女の笑顔には戦慄を禁じ得ません。『さらやしき』の幽霊画はろくろ首スタイルのお菊さんを描いたもので、皿の連なりで首を表現する手法が独創的です。

江戸時代末期の絵師・歌川国芳は、怪異物に風刺を混ぜた大判絵を得意としました。
『源頼光公館土蜘作妖怪図』では当時の将軍・徳川家慶を、土蜘蛛に苦しめられる源頼光に見立てています。
このように滑稽で恐ろしい幽霊画は、体制批判の隠れ蓑としても使われたのです。

■ 笑ひはんにゃ
public domain ウィキメディア・コモンズ経由

背中で語るうぶめ、血まみれ芳年の活躍

月岡芳年は最後の浮世絵師と名高い人物で、斬首や拷問などの残虐な光景を描いた無惨絵で知られました。
別名血まみれ芳年とも呼ばれ、『幽霊之図』『宿場女郎図』における幽霊の描写は大変なリアリティーを伴っています。これらは実際に幽霊を見て描いたとも囁かれており、異様な気配に圧倒されます。

さて、芳年の幽霊画の代表作として挙げたいのが『幽霊之図うぶめ』。産女は亡くなった妊婦の霊で、墓場に出るとされてきました。江戸・明治の封建的価値観では、子を残さず死んだ女は嫁の務めを果たしてない故、成仏が許されなかったのです。
『幽霊之図うぶめ』にはほっそりした女の後ろ姿が描かれ、その腰巻は血で赤く染まり、乳飲み子の足が僅かに覗いています。従来の幽霊画が未練や怨嗟に歪んだ醜い形相を暴いているのに対し、本作は子を失った女の悲哀を帯びているように感じませんか?

■ 幽霊之図うぶめ
Yoshitoshi, Public domain, via Wikimedia Commons

妊娠中の妻を吊るす、伊藤晴雨の奇行

月岡芳年に強い影響を受けた絵師の一人が伊藤晴雨。代表作は三遊亭圓朝の怪談噺に着想を得た『怪談乳房榎図』『真景累ヶ淵』です。前者は滝壺に投げ込まれた我が子を救うため、妻の愛人に殺された父の霊が化けて出る絵で、珍しい男の霊が描かれています。ほどけた髷と頭部の血、憎しみを滾らせた形相は壮絶の一言に尽きました。『真景累ヶ淵』に至っては髪の毛が絡んだ鎌と赤い花しか描かれてないのが、かえって想像力を刺激しますね。

晴雨は女性を折檻する責め絵の名手でもあり、実際に身重の妻を縛って吊るし、それをモデルに絵を描いています。
妊婦への負担を顧みれば鬼畜な行為というほかありませんが、芸術の為なら外道に落ちるのも辞さない執念が、人間の本質を抉りだす幽霊画に結実したのかもしれません。

■ 景累ヶ淵
Daderot, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

魔除けや泥棒除けが目的?!幽霊画が描かれた意外な理由

幽霊画の流行には鶴屋南北作の歌舞伎のヒットが関係していますが、それ以外にも理由があります。
一説によると、幽霊画は魔除けや泥棒除けとして家庭に飾られていたといいます。幽霊を払うのに幽霊の絵を掛ける……見事な発想の転換ですね。ややもすると奇妙に感じるかもしれませんが、幽霊の側に立っていれば、「先客がいるからやめておこうか」となるのでしょうか。

泥棒除けに関してはもっと単純。夜闇に乗じて忍び込んだ家で幽霊画を目の当たりにしたら、驚いて逃げ帰ってしまっても責められません。青森県の一部地域では雨乞いを目的として幽霊画が飾られており、人ならざるものの絵には神通力が宿ると、当時の百姓たちが信じていたのがうかがえました。

featured image:Maruyama Ōkyo, Public domain, via Wikimedia Commons

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