明治の私宅監置の実態~座敷牢は何故できたか?

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日本の旧家には座敷牢があり、世間体を損なうと家長に判断された人間が幽閉されていました。明治時代には精神障害者に対する私宅監置制度が設けられ、数多くの悲劇の温床と化します。
今回はホラー小説や漫画でお馴染みの座敷牢の成り立ちや、政府主導で行われていた、私宅監置制度の是非を掘り下げていきたいと思います。

目次

座敷牢には座敷がない?屋根裏や蔵、離れに厄介者を移す

座敷牢とは便宜上の呼び名。必ずしも座敷の有無は問われず、土蔵や納戸、母屋と敷地を隔てた離れの一室などが使われる場合もあります。
その用途は精神異常者の隔離・収容で、日本には江戸時代以前から存在していました。

当時の武家社会の慣習として、乱心した大名や旗本、あるいはその親族が座敷牢に入れられました。素行の悪さから当主や跡取りに不相応と見なされた者も、座敷牢に隔離された記録があります。
これは主君押込(しゅくんおしこめ)と言われるしきたりで、鎌倉時代から連綿と続いていました。江戸時代は家老たちが合議を行い、藩主を強制的に押込(監禁)することもあったそうです。中にはクーデターの犠牲となった藩主もいました。

彼等は家名の恥・一族の面汚しと見なされ、一切の外出を禁じられます。表向きの辻褄合わせとして、不慮の事故や急病による死亡が公表されることもありました。江戸時代の「指籠(さしこ)」は心神喪失者を収容する為の木造の宅内施設を指す呼び名。監禁場所の条件は外から施錠できることで、排泄には備え付けの甕や壺の他、簡易的な便器が用いられました。幽閉後も暴れ回るのをやめない時は鎖や縄で縛ったそうです。

昔の人々は精神病の知識に乏しく、それ故心の病を狐の仕業と恐れ、身内の問題は身内で解決すべきと思い込んでいました。医者に見せるなどもってのほか。憑物落としを手掛ける寺社に預けられるのはまだ良い方で、一度座敷牢に閉じ込められたら最後、生きて出てこられる可能性は大変低いと言わざるを得ません。

座敷牢に入れられた実在の有名人の中には、『忠臣蔵』で有名なあの浅野内匠頭もいます。
田村家の公式記録『浅野内匠頭御一件』曰く、江戸城内の松の廊下にて宿敵・吉良上野介に斬り付けた浅野内匠頭はその罪を咎められ、一関藩田村右京大夫邸に「お預け」になりました。

記録によれば屋敷の上ノ間と中ノ間を隔てる襖を釘付けにし、その外を板で囲い、唯一の出入り口にも常に鍵を掛ける徹底ぶり。便所は室内に設置されていましたが、匂いが酷かったことは想像に難くありません。三河岡崎藩六代目藩主・水野忠辰も度重なる狼藉が祟ってクーデターを招き、座敷牢で亡くなりました。
収容者の死後は速やかに解体され、闇に葬られるのが座敷牢の特徴な為、現存している座敷牢は極めてレアと言えます。

私宅監置制度誕生のきっかけとなった相馬事件

私宅監置制度誕生の背景には、明治初期に起きた相馬事件が大きく関わっています。
相馬事件とは相馬藩最後の藩主・相馬誠胤が、精神病者として自宅の座敷牢に繋がれた事件。誠胤はもともと極端に気が短く、些細な事で激怒しては物や人に当たり、激しく暴れ回っていたそうです。1877年には囲碁で負けた家臣を槍で突き殺しかけ、間一髪取り押さえられました。

日々エスカレートしていく主君の狼藉を憂えた家臣たちは、誠胤が旅行に出かけている間に八畳間に鉄棒を巡らし座敷牢を作り、彼が帰宅するや騙し討ちのように監禁。
当時の記録を見るに誠胤は統合失調症の疑いが濃厚で、それが被害妄想から来る家庭内暴力を誘発したのではないか、と推測されています。

1879年には自宅における監禁措置を親族が申し入れ、宮内庁から正式に許可をもらいました。
しかし家で面倒を見続けるのにも限界が訪れ、仕方なく癲狂院(精神病院の前身)へ入院させた所、旧藩士の錦織剛清が「殿の監禁は家督を狙った異母弟、及びその家族による陰謀である」と訴えを起こしました。
この時訴えられた人物こそ小説の神様・志賀直哉の祖父であり、相馬藩の家令を務めた志賀直道。

世間の人々は主君の名誉挽回に立ち上がった錦織を称賛しますが、彼が癲狂院に押し入って病床の誠胤を誘拐しようとした事実が明るみに出ると、その強引な行動が批判を受け、風向きが変わり始めます。
1892年に誠胤が病死。すると錦織は「相馬家の関係者が毒を盛ったに違いない」と騒ぎ始めるも確たる証拠は上がらず、今度は相馬家側から誣告罪(虚偽の告発をした罪)で訴えられ、最終的に有罪の判決が下されました。
一連の騒動を経て「精神病者を病院に預けるのは却って危険だ」「家に閉じ込めておいたほうがいい」との認識が広まった結果、1900年3月に精神病者監護法が施行されます。

精神病者監護法では「精神病者を監置できるのは監護義務者(当事者の両親や戸主)のみ」「私宅・病院に監置するには医師の診断書を提出し、当地の警察署を経て地方長官(現在の都道府県知事)の許可を得なくてはならない」と定められていました。
上記の条件さえ満たせば死ぬまで閉じ込めておけるのがこの法律の怖い所で、地元有力者の戸主が医者や警察と癒着している場合、心身ともに健康な人間すら一生監禁しておけたのです。妄想を逞しくすれば、家督争いの敗者が閉じ込められていたかもしれません。

知られざる座敷牢の暮らしと幽閉者の末路

私宅監置制度は1950年代に精神衛生法が施行されるまで続きましたが、米軍統治下の戦後沖縄では廃止が遅れ、1960年代以降も継続していました。廃止されたのは1972年……たった半世紀前です。
精神科医の呉秀三が調査を行った所、沖縄本島北部の集落に私宅監置の跡地が残っていることが判明。

それはコンクリート製の粗末な小屋で、食事の出し入れと通気の為の小窓が一個設けられ、中には排泄と就寝用のスペースがあるだけ。分厚い鉄扉には鎖が巻かれ、脱走は絶対に不可能でした。扉や窓に五寸釘が打たれた牢小屋も確認され、幽閉者が家畜の寝床に等しい、劣悪な環境で過ごしていたことが判明しています。長年狭く暗い密室に監禁されていたせいで膝が萎え、直立や歩行が困難になった人もいました。

座敷牢の本当の恐ろしさを知りたい人へ おすすめの作品紹介

座敷牢は古今東西のフィクション・ノンフィクションに登場します。
明治の私宅監置制度をもっと知りたい方は、上で挙げた呉秀三の調査報告書を下地にした、『【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況』(金川英雄)を読んでください。日本全国の座敷牢の事例を集め、その惨状を詳細に記録しています。
漫画の神様・手塚治虫の『奇子』は、祖父と母の不義の子として産まれ落ちた奇子の運命を描く傑作。

当主となった父に憎まれ土蔵に監禁された奇子が、生理の知識がないままに初潮を迎え、「あたし死んじゃうの?」と混乱して泣き叫ぶシーンはショッキング。読者にトラウマを与えること確実です。
小野不由美『残穢』と三津田信三『わざと忌み家を建てて棲む』も私宅監置制度と切り離せぬホラー小説。

両者とも怪異の根幹に座敷牢の存在が関わっており、垢と糞尿の饐えた匂いが立ち上がってくるような、生々しい描写に戦慄を禁じ得ません。
宮部みゆき『怪~あやし』では鬼嫁の策略によって座敷牢に幽閉された姑が狂い死に、生き残った一族に祟りが降りかかります。どれも大変勉強になる本なので、ぜひ読んでください。

令和の座敷牢は絶滅したのか?

以上、座敷牢と私宅監置の解説でした。令和を生きる我々には縁遠い話に思える一方、2017年の大阪府寝屋川市と2018年の兵庫県三田市でも、家族が精神障害者を監禁する事件が起きています。
中高年のひきこもり増加を顧みるに、現代の一般家庭にも、座敷牢は存在するのではないでしょうか?

※画像はイメージです。

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