とあるアパートメントの一室で、男の人生は最後の秒読みに入った。
彼はドアと窓に鍵をかけ、冷房をきり、カレンダーの今日の日付に丸印をつけると、ピストルを手にバスルームへ向かった。それから浴槽に身を沈め、銃口をこめかみに当てて人さし指に力をこめた。
7日目の朝がきて、警察がドアをノックした。身寄りのない、気の毒な老人が世をはかなんで自殺した——誰もがそう思った。
オハイオ州イーストレイクで2002年の夏に起きたこの悲劇。よそ目には事件性のない老人の孤独死だが、自殺から21年が経過した現在もこの人物に関する捜査は打ち切られていない。なぜなら、彼こそが米犯罪史に残る未解決連続殺人「ゾディアック事件」の犯人だった可能性が示唆されているからだ。
ミステリーのパズルのピースは、時として思いもよらないところに息をひそめているものである。
謎に満ちた老人の死
ミステリアスな自殺をとげた76歳の老人は、世間ではジョセフ・チャンドラーという名で通っていた。
近隣住民の話によると、チャンドラー氏は知的な紳士だが変わり者で、身寄りも友人もいない独身者。ときおり「やつらが来る」と口走っては姿をくらまし、1か月ほど戻らないこともあったという。部屋にはいつでも高飛びできるように荷造りしたスーツケース。銀行口座には安アパートの住人に不相応な8万2000ドル。しかし、警察が驚愕したのはこのあとだった。
一人暮らしだった彼の死を近親者に知らせようと身元を照会したときのこと。なんと、ジョセフ・チャンドラーなる人物は別にいて、老人がその名を盗んでいたことが判明したのだ。本物のジョセフは57年前にテキサス州で交通事故にあい、両親とともに死亡した8歳の少年だった。老人は、ある時点で少年の身元情報を入手して、それからずっとジョセフ・チャンドラーになりすましていたことになる。
他人と入れ替わってまで素性を隠さねばならない人物とは誰か。考えるまでもなく、それはなにかから、あるいは誰かから死にもの狂いで逃げている者である。逃亡生活のただなかにあるということは、まず逃亡犯とみてまちがいはない。
捜査員の顔色が変わった。
ところが不運なことに、どこを探しても偽ジョセフの本当の身元を特定する鍵がみつからない。部屋には手がかりとなるものが不自然なほど残されておらず、閉めきった夏場の部屋で腐敗が進んだ遺体からは指紋の採取すらできなかった。亡骸はやむなく火葬に付されることになったのである。
ある未解決事件との不気味な共通点
事態が大きく動いたのは2014年。老人が死の2年前に病院にかかっていたこと、そして、その際に組織のサンプルを採取されていたことがわかったのだ。
DNA解析と家系追跡技術のおかげで明らかになったのは、本姓が「ニコラス」か、それに似た名前であること。この手がかりを頼りに調査をつづけたところ、2018年にようやくDNAが一致する人物にたどり着く。老人の息子フィル・ニコルズである。
ジョセフ・チャンドラーとして生きていた男の正体は、インディアナ州生まれで本名をロバート・ニコルズといい、第二次世界大戦中に勲章を授与された退役軍人だった。
戦後は3児の父親としてごく平凡な暮らしを送っていたニコルズが、突如として不可解な行動にでたのは1960年代半ばのこと。
「わたしはもうこの家には戻らない。理由はいずれわかる」とだけ言い残して、妻と子どもたちを捨てて失踪したのだ。その後、家族に届いたカードや手紙から全米を転々としていることがわかったが、カリフォルニア州からの手紙を最後に音信はぷっつりと途絶えてしまう。以来、行方は杳としてわからなくなった。
捜査チームの推察によれば、ニコルズは1978年になんらかの方法でジョセフ・チャンドラーの出生証明書を手に入れて本人と入れ替わり、長期にわたる潜伏生活に入ったとみられる。この年のうちにオハイオ州で電気技師として働きはじめたことも記録からわかっている。
一方、依然として不明なのは、カリフォルニア州からオハイオ州に移るまでの足取りだった。時期としては、1965年ごろから1978年にあたる。
正体を暴かれるのをなんとしても避けたい男。別人になりすました背景には、なにか後ろ暗い理由があったと考えてまちがいはないだろう。謎の老人ロバート・ニコルズと、30年前の連続殺人鬼がクロスしたのはこのときである。それにはいくつかの理由があった。
- ニコルズが一時期カリフォルニア州に住んでいたこと。
- 犯行期間とニコルズの空白の13年間が重なること。
- 目撃証言をもとに作成された犯人の似顔絵がニコルズと似ていること。
- 殺害現場に残されていた靴跡が、米軍兵士に支給されるブーツと同じ型だったこと。
きわめつけは捜査当局が開いた会見だった。件の連続殺人事件との関連性について質問された捜査員は、このように明言したのだ。
「ロバート・ニコルズが失踪し、死亡した少年の身元を名乗ったうえで、長年にわたり家族に連絡をとらなかったのには理由がある。われわれはニコルズをゾディアック事件の容疑者から外してはいない」
全米を震撼させた劇場型犯罪
ここでゾディアック事件をおさらいしておこう。
60年代末、サンフランシスコのベイエリアで、デート中のカップルを狙った残忍な手口による殺人事件が相次いで発生した。犯人は不敵にも警察に電話をかけて名乗りをあげ、新聞社に犯行声明と暗号文を次々に送りつけて自らの存在をアピールする。
「ゾディアック」とは「黄道帯」を意味する言葉で、犯人が声明のなかで「俺はゾディアックだ(This is the Zodiac speaking)」と名乗ったことから事件の名称になった。
多くの連続殺人犯と決定的に異なる点は、まるでゲームを楽しむかのように警察や報道陣への挑発をくり返しては「逮捕されない自信」をちらつかせ、愉快犯として悪名をとどろかせたことだ。米国における劇場型犯罪のパイオニアともいえるこの事件は、やがてゾディアックを崇拝する模倣犯をも生みだして、さらに捜査を翻弄することになる。
「俺の正体が隠されている」。そううそぶいた暗号文は新聞に掲載され、ほどなくして一部が一般市民に解読された。以下は要約。
「俺は人殺しが好きだ。森でケモノを狩るより楽しい。女とセックスするより興奮する。死後の楽園で俺にかしずく奴隷を狩るのは最高だ。俺の名前をおまえらに教えてなどやるものか。奴隷狩りを邪魔されるのはまっぴらだ」
ところが、1974年に送られてきた手紙を最後に音信は途絶え、事態は沈静化する。
半世紀を経た2020年には、アマチュアの解読チームが別の暗号文を攻略したが、犯人像に直接つながる情報はみつからなかった。自分の名前を13文字で記したとされる暗号文は今もって解読されていない。
ゾディアック・キラーによる犯行と確定しているものは、レイクハーマン・ロードの殺人、ブルーロックスプリングスの殺人、ベリエッサ湖の殺人、プレシディオ・ハイツの殺人の5件。本人は37人を殺したと告白したが、捜査当局が確認できた死亡者は5名、負傷者は2名にとどまっている。
犯人像
生還者を含む数名の目撃情報、電話の声、物的証拠、大量の犯行声明がそろっていながら、いまだにサンフランシスコ市警は真犯人を絞りこむことができていない。犯行にみられる特徴や傾向を整理すると、犯人像の特異性が浮かびあがってくる。
- 高い教養とIQ
犯行声明に映画やオペレッタの台詞を引用したり、高度な暗号のテクニックを駆使するなど、かなり知的水準の高い人物であること。
有力容疑者の一人だったアーサー・リー・アレンが捜査線上に浮上した理由のひとつが「IQが高いこと」だった。 - 特異な世界観
殺害した人間を死後の世界で奴隷にするというエキセントリックな思想の持ち主であること。 - 女性に対する執着、あるいは憎悪
ゾディアックによる犯行と確定した5件の殺人事件で、一命をとりとめた2名はいずれも男性で、女性は全員殺された。このことから、女性に対する悪感情か、女性がらみのトラウマをもっている可能性があること。 - イギリス訛りの英語
犯行を自ら通報した際にイギリス訛りのある英語を話していたこと。
1969年7月4日の昼ごろ、19歳のマイケル・マジョーはブルーロックスプリングス・パークにてゾディアック・キラーに襲撃され、顔や首、胸などに被弾したのち奇跡的に生還した。マジョーによれば、ゾディアックは20代後半から30歳ぐらいの白人男性で、身長はおよそ173㎝。体重は90㎏前後か、それより上。髪は短く、薄い茶色で癖毛だったという。
1969年10月11日の夜に起きたプレシディオ・ハイツ事件の通報で駆けつけたドン・ファウク巡査も、現場から立ち去ろうとするゾディアックらしき男を目撃した。その男は40歳前後の短髪の白人男性で、身長は178㎝程度。殺害現場を目撃した三人のティーンエイジャーは、犯人は短髪で25歳から30歳、身長は173㎝から175㎝ほどだったと説明している。間近で目撃した人々ですら、証言が微妙に食い違う。その時々の人間の記憶というものが、いかに先入観や外的要因に影響されやすく、あてにならないものであるかを思い知らされる。
犯行を隠したいと思う犯罪者が多いなか、ゾディアックは自ら殺人を告白し、警察や新聞社にメッセージを送りつづけた。そこには挑戦的な意味合いのほかに、世間の注目を浴びたい、スリルを得たいという欲求もあったにちがいない。
ある時点で犯行をぱたりとやめてしまうのも、劇場型犯罪の犯人によくみられる傾向といえる。別件逮捕や死亡によって犯行が止まることはありうるが、ほとんどの場合は本人の意思によるものだろう。ただし、それはスリルや面白味を得られなくなったり、労力の比重が大きくなったと判断したからであって、けっして改悛したからではない。
次々と浮上する有力な容疑者たち
これまで有力な容疑者と目されてきた男たちは、オハイオ州で命を絶ったロバート・ニコルズの例にもれず、ほとんどが結論のでないまま、この世を去ってしまった。
こうした状況のなか、 新たな展開がみられたのが2021年のこと。
未解決事件を調査する民間捜査グループが、「ゾディアック事件の真犯人を特定した」と発表したのだ。その真犯人とは、2018年に他界したゲアリー・ポステという人物で、物的証拠および法医学的証拠から特定に至ったというのである。同グループはさらに、リバーサイド警察が「ゾディアックとは無関係」と結論づけた1966年のリバーサイド大学生殺人事件についてもポステが犯人であるとの見解を示した。
これに対してリバーサイド警察は、同事件はゾディアックによる犯行ではないとポステ=ゾディアック説を否定。さらに両事件は犯行声明が送られたこと以外に共通点はないと一蹴した。
サンフランシスコ市警は、「ゾディアック事件の容疑者については捜査継続中であるため、情報を公開することはできない」という声明をだすにとどまった。
2023年には、満を持して人工知能を捜査に投入。AIが導き出してくれるであろう、真犯人につながるヒントに期待が寄せられたが、ゾディアックの思考パターンを学習した人工知能が吐き出したのは不気味な詩だったという。
汚れた引き金に指がかかる
悲しみの悲しみは、泣きながらささやく
凄惨な殺人、孤独と怒り
ここは人造湖の真ん中
殺人者は絶対に有罪にはならない
人工知能がゾディアックの思考パターンに同化しているならば、犯人は「孤独」や「怒り」といった負の感情をくすぶらせていたことになる。先端技術がゾディアックの毒気に当てられていないことを願いたい。
今ごろゾディアックは楽園で奴隷を侍らせているかもしれない。
年老いた老人の孤独死と事件を結ぶ伏線は、いつの日か回収されるだろうか。
警察の捜査網をかいくぐり、永遠に勝ち逃げする殺人鬼たちがいる。彼らが目を閉じるとき、その脳裏によぎるものはなんだろう。
※画像はイメージです。
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