大正時代、日本海軍は三本煙突が特徴的な軽巡洋艦を14隻も建造しました。
昭和の太平洋戦争では軽巡洋艦の主力となった、5500トン型と呼ばれた14隻はどんな艦なのか解説します。
軽巡洋艦の誕生
軽巡洋艦とは何か?
巡洋艦と言う種類の艦艇はありましたが、警戒や索敵を行う偵察巡洋艦や敵艦との戦いを重視した装甲巡洋艦がありました。
第一次世界大戦の前に、駆逐艦の部隊を率いる巡洋艦が必要だとする意見が出るようになりました。
複数の駆逐艦を従えて指揮する艦艇は駆逐艦では不足で、小型の巡洋艦が必要だとする意見がイギリスやドイツの海軍で出て来たのです。
新たな駆逐艦部隊を率いる巡洋艦
これまでの装甲巡洋艦や偵察巡洋艦とは違うタイプの小型巡洋艦である事から、軽巡洋艦と呼ばれるようになります。
日本海軍はこうした海外の動向を見て、軽巡洋艦を建造する事にした。
大正8年(1919年)に日本海軍は基準排水量3230トンの「天龍」型が竣工した。
この「天龍」型の「天龍」と「龍田」から、日本海軍は軽巡洋艦と駆逐艦による水雷戦隊を組むようになります。
続々と作られる軽巡洋艦
「天龍」型の建造で軽巡洋艦を持ち始めた日本海軍は、常備排水量5500トンの大きさの軽巡洋艦を次々と建造を始めます。
大正9年(1920年)から大正10年(1921年)にかけて5隻の「球磨」型軽巡洋艦が建造されました。
「天龍」型の性能を不足と感じた日本海軍は、「天龍」型よりも船体を大きくし、機関の出力を4万馬力向上した9万馬力にし、最高速力36ノットになった。
高速の駆逐艦を率いる巡洋艦である為に速さは必要だったのです。
更に偵察機も搭載し、広い索敵能力も持つようになりました。
大正11年(1922年)から大正14年(1925年)にかけて、「長良」型6隻が建造されました。
船体の大きさなど「球磨」型とほぼ同じですが、「長良」型で装備する魚雷が53センチから61センチになり水雷戦の攻撃力が向上した。
日本海軍の大規模艦隊整備計画である、八八艦隊計画もあって5500トン型軽巡洋艦は多く作られました。
太平洋戦争を戦う5500トン型
「長良」型に続いて「川内」型が作られますが、大正11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約で巡洋艦の保有が制限されます。
8隻を予定していた「川内」型は3隻の建造に削られました。
こうして5500トン型14隻が作られたのです。
駆逐艦部隊を従える水雷戦隊旗艦として作られた5500トン型軽巡洋艦は、当時の巡洋艦としては小ぶりな14センチ砲です。
これは水雷戦隊を妨害する敵駆逐艦に対して、人力装填で早く撃ち続けるためです。
5500トン型の目的が水雷戦隊旗艦として駆逐艦と共に動く事にありました。武装の強化よりも速さと旗艦としての機能を追求したのです。
featured image:IJN Tenryu in Shanghai Feb 1934, Public domain, via Wikimedia Commons
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