明治時代の日露戦争では旅順攻防戦も激戦の一つでした。
旅順の戦いはある地点が焦点になりました。
それが二百三高地です。
何故ここが要塞攻防戦で一番の激戦になったのか解説します。
日本軍は旅順攻略を決定する
日露戦争開戦にあたり日本海軍はロシア極東のウラジオストクと遼東半島の旅順にあるロシア海軍の軍港を警戒していました。
特に旅順は戦艦が4隻もある旅順艦隊が居います。
日本海軍は旅順艦隊をどうにか撃滅か無力化しようとします。
その為に汽船を旅順港の前に沈めて塞ぐ閉塞作戦を実行しますが失敗に終わります。
そこで海軍は陸軍へ旅順攻略頼み日本陸軍による旅順攻略が決まりました。
旅順へ向かうのは乃木希典大将率いる第3軍です。
乃木大将は10年前の日清戦争で清国の旅順要塞を攻略した経験がありました。
苦戦する日本軍
しかしロシア軍の旅順要塞は清国軍の時よりも強化されていました。
要塞はペトンと呼ばれるコンクリートの素材で固く作られ日本軍歩兵の突撃は撃退されてしまいます。
攻略が進まない事に日本海軍は「要塞攻略は後回しにして二百三高地を占領してくれ」と第3軍に要求します。
第3軍は最大の驚異である要塞の攻略を優先していました。
海軍が二百三高地にこだわったのは二百三高地が旅順港を見渡せる絶好のポイントだからです。
二百三高地から旅順港内のどこへ砲撃を加えるか指示を出して旅順艦隊を陸からの砲撃で撃滅するのが海軍の目的だったのです。
決戦二百三高地
二百三高地がある地区を担当しているのは東京の第1師団でした。
第三次総攻撃の途上で乃木大将が主な攻撃先を要塞から二百三高地に変更した時点で第1師団は大損害を受けていました。
そこで増援として来ていた旭川第7師団が二百三高地攻略の主力として投入されます。
日露両軍は何度も二百三高地を奪い合う激しい戦いを繰り広げました。
ロシア軍は旅順艦隊の水兵まで投入して二百三高地を守ろうとしましたがとうとう兵力が尽きて日本軍が二百三高地を占領します。
日本軍は二百三高地に砲兵の観測所を置き旅順艦隊を砲撃して撃滅に成功します。
日本軍は愚かだったか?
二百三高地を含めて旅順攻防戦は日本軍がいたずらに犠牲を増やした悪い作戦だったと言われています。
確かに日本軍の死傷者は多く無駄に歩兵突撃を繰り返したと評価する向きがあります。
しかし後の第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも各国の陸軍は固い敵陣への歩兵突撃を繰り返し犠牲を増やした。
どんなの砲撃や爆撃を加えても敵兵を倒しその場を占領するには歩兵による制圧しかない。
日本軍はこの方法を繰り返して多くの犠牲の上に攻略が完了したのです。
※画像はイメージです。
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