帝国陸軍の三八式歩兵銃、その特徴の一つはその長さだったといいます。
それはどういう理由なのでしょう?
三八式歩兵銃の生い立ち
戦前、帝国陸軍の制式歩兵銃だった三八式歩兵銃は明治38年(1905年)に採用され、太平洋戦争終結までの40年間で約340万挺生産され、長きに亘って歩兵配備の主要火器であり続けました。
欧米人に比べ体格的に劣る日本人が扱うには、手に余るのではと思われるほど銃身が長いのが特徴ですが、小口径6.5mm弾の採用による射撃時反動の少なさと長銃身が相まって、命中精度の高さには定評がありました。
長い銃身の採用は日露戦争における広大な平地での銃撃戦の経験によるものでした。
取り回しよりも有効射程距離や命中率を重視したのです。
しかし一方で長銃身には別の目的もありました。
当時の陸戦は砲銃撃の後の歩兵による突撃攻撃と白兵戦で決着がつき、また騎馬部隊も実戦部隊として活躍していました。
三八式歩兵銃には、刀身40cm、全長51cmの長い銃剣が装備されており、これを着剣すると全長166cm余りになって、歩兵や騎馬兵による突撃白兵戦に有利なように設計されたのです。
帝国陸軍の白兵主義
日露戦争では日本軍は陸海軍ともに弾薬不足に悩まされました。
例えば陸軍では開戦直前には陸軍砲兵工廠で昼夜兼行で大砲弾を製造していましたが、ここで1ヶ月かけて懸命に製造した大砲弾を、開戦後緒戦のたった1日の会戦で撃ち尽くしてしまいました。
これはもちろん大誤算でした。
それまでもフル回転で操業していた工廠が急に製造量を増やせるはずもなく、1年半余りの戦争中、常に弾薬が足らない状態で現地軍は戦わねばなりませんでした。
激戦で有名な旅順要塞攻防戦で日本軍が多大な死傷者を出した原因は、弾薬不足で十分な砲撃が不可能だったからだという指摘もあります。
日本陸軍は当時ドイツに学んだの火力主義を採用していました。
それは最終的な突撃白兵戦によりも、重小火器による銃砲撃戦で勝敗を決することを良しとする戦法でした。
にもかかわらず日露戦争の旅順攻防は全く正反対の展開になっています。
それはやはり弾薬不足が一因していたのかもしれません。
主義の転換
日露戦後の陸軍はそれまでの火力主義から白兵主義に転換を始めます。
火力主義を維持するだけの銃砲弾製造能力が日本にはまだないという現実が、日露戦争を通じて判明したからです。
それは単に工廠の数を増やすといった単純な技術的なものではなく、国家の経済力、つまり国力に関わるほどの大問題だったので、早急な解決方法はありませんでした。
そして足らない分を補うものとして、精神性を背景とした白兵主義が台頭し始めるのです。
帝国陸軍の白兵主義は合理的な戦法論議から遊離し、大和魂というような精神主義の非現実的な実践方法として、軍の中心に居座ってしまいます。
こうして太平洋戦争末期、数多くの三八式歩兵銃が万歳突撃に使われました。
参照:強い陸軍の維持 / あの戦争と日本人 半藤一利 著
※画像はイメージです。
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