第二次世界大戦は陸では戦車が戦いの主役となりました。
日本陸軍は戦争の末期で敵戦車と戦える戦車を開発します。それが四式中戦車チヌです。
今回は日本陸軍が四式中戦車が開発する経緯についてです。
戦車と戦える戦車
日本陸軍の戦車は八九式中戦車も、九七式中戦車も歩兵支援を主な役目とした戦車でした。
これに対して、四式中戦車は敵戦車と戦うのを主な役目として作られた戦車です。
九七式中戦車チハは敵戦車との戦いを想定していない訳では無いものの、短砲身の57ミリ砲では、アメリカ製軽戦車のM3スチュアートを撃破するには火力が弱い。
九七式中戦車の改良型である九七式中戦車改は、短砲身57ミリ砲よりも威力がある47ミリ砲を装備していましたが、正面から米軍のM4シャーマン戦車など敵戦車に立ち向かえる戦車では無かった。
日本陸軍は敵戦車と戦う事を主にした新型中戦車が必要だと自覚する。
時は太平洋戦争でガダルカナル攻防戦が繰り広げられていた1942年(昭和17年)の7月同時期に起きていたドイツとソ連の戦争、独ソ戦でドイツ軍とソ連軍は強力な砲と装甲を備えた戦車で戦っているとし、戦車の技術的進歩が目覚ましいと陸軍軍需審議会で述べられます。
日本の戦車は技術的に遅れているとし、砲と装甲を強化した新型中戦車を作る研究方針が定まります。
四式中戦車へ至る道
方針は定まったものの、戦局は急を要する。
四式中戦車となる新型の開発を進める一方で、一式中戦車の車体に75ミリ野砲を装備できる砲塔を載せた三式中戦車チヌが開発されます。
この三式中戦車は終戦までに150両または160両ほどが生産され、本土決戦に備えたとされる。
間に合った戦車と言える三式でも、距離600mまで近づかなければM4シャーマンを撃破できないとされた。
1942年(昭和17年)9月には兵器行政研究方針で、後に四式中戦車となる長砲身の57ミリ砲と47ミリ砲の二種類で新型中戦車の開発が決まります。
設計は陸軍技術本部の戦車や車輌を担当する第四技術研究所の第二科が、試作車を作るのは三菱重工業の東京機器製作所で進められた、
開発をする中で47ミリ砲では威力不足だとなり、長砲身57ミリ砲を装備した新型戦車の開発が続けられた。
1944年(昭和19年)に57ミリ砲を装備した試作1号車が完成します。
しかし、すぐに57ミリ砲から75ミリ砲で開発する事が決まりました。
1945年(昭和20年)春に75ミリ砲を装備した試作2号機が作られます。
こうして四式中戦車の形は出来上がったものの、ほどなく終戦となります。
日本陸軍は四式中戦車を1945年(昭和20年)の年内に200両を量産する計画でしたが、米軍の海上航路への攻撃で原材料が不足し、工場が空襲で破壊されている日本で100両以上も作れたかとなると疑問はあります。
四式中戦車はまさに遅れてしまった戦車です。
featured image:日本語: 米陸軍English: U.S. Army, Public domain, via Wikimedia Commons
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